『電子的パンデミック』



   ♫



 客席が光を失っていく。

 しんとなった暗がりのホール内で、ステージ上のグランドピアノさえ漆黒に呑まれ明かりを反射させなくなった頃。

 ファンファンと踏切の音が押し寄せてくる。聴こえたのは、ちょうど吹雪たちの真後ろにあるスピーカーからだ。

(え……あれ? もう始まってる……のか?)

 吹雪は闇中で目を瞬かせる。演奏者が一人も出てきていないうちに、八箇所に並んだスピーカーが雑多な音を奏でていた。

 雑音、騒音、生活音。

 やはりというか案の定というか、吹雪ふぶきが聴かされていたのは『音楽』では無い。

 しかし代わりに聞こえてくるのは──闇の中でも鮮明に映し出されたのは、ついさっき吹雪も乗ってきた地下鉄や、名古屋駅を右往左往する忙しない人々が、図らずして奏でた、、、、、、、、狂騒曲。


 林翼はやしつばさ 作曲

『名古屋駅のスクランブル交差点にメシアンが転がっている』


 冷静に考えれば変なタイトルだ。

 駅前ならまだしも、駅そのもの、、、、、にはスクランブル交差点は無いんじゃなかろうか。踏切にしたって、スクランブル交差点などという一番混みそうな場所の近くに置いてあった記憶はない。

 空間に、音に、歪みが生じていく。

 本来あるべきでない音がそこでいつのまにか存在していて、逆に、あって然るべき音が次第に抜け落ちていく。

 吹雪は気が付いた。これほど騒がしいというのに、随分とさっきから──

人の話し声が聞こえない、、、、、、、、、、、

 音を発しているはずの存在が、駅で何よりも喧騒の根源であるはずの人々が、その世界からいつしか消えていた。

 人々に取って代わったのは『音楽』だ。オーケストラと思わしき楽器の集合体が、構造ありきのメロディやハーモニーをあちらこちらでかき鳴らす。

(『トゥーランガリラ交響曲』か)

 菜穂子なおこはその曲を知っていた。腕を組み天井を仰ぎながら、

(この曲が生物と音楽の立場を逆転させるっつーコンセプトなら、そこは『鳥のカタログ』あたりじゃないの? さては『作曲動機テーマ』よりも『演奏音響サウンド』を優先しやがったな? オケのが派手だとか映えるとかなんとか……)

 早速いちゃもんを付けている──音が面白くなければどうこうと抜かしていた、舌の根も乾かぬうちに。しかも菜穂子の代案では逆転された結果、人じゃなく鳥になってしまう。結局は生物のままではないか。

 なんにせよ、ピアノ・ソロの『鳥のカタログ』でもオーケストラの『トゥーランガリラ交響曲』でも、メシアンの曲はとかく音響の派手さに定評がある。ピアノ・パートの激しい和音が聴こえてきた途端、ほうと吹雪が息継ぎしたのを菜穂子は聞き逃さなかった。


 やがてフェードアウトしていくスクランブル交差点の雑踏が、最後に聴衆へ残したのはスマホの着信音だ。誰からかも分からぬそれに応じたのは、果たして人か、それとも……。

 一曲目の演奏が終わりホール内がパッと明るくなれば、次は吹雪の目を眩ませる強い光。

(え⁉︎ 先輩……?)

 菜穂子が急に、吹雪へ肩を寄せてきた。吹雪は気が気じゃなかったが、菜穂子のほうに他意は無い。ただ翼へ向けられたスポットライトが、自分にまで当たるのを嫌っただけである。

「ブラボー!」

 客席のどこかから中年の歓声が飛ぶ。

 満席でなくとも大きな拍手と視線に囲まれた翼は、飄々と席を立ち上がりその場で小さくお辞儀をした。

 翼が再び着席する頃合いでスポットが止むと、今度はステージの明かりのみを残して客席がうっすらと暗くなる。どうやら『新しい集団』はこの流れでいきなり二曲目も演奏してしまうつもりなのだ。

(あいさつも何もやらないんだな……)

 吹雪は内心そう不思議がりつつ、舞台袖から黒いドレス姿の女性──この演奏会でやっとこさ登場した、初めての『演奏者』である──が現れたのを拍手で迎えた。

 別に良いんだ、コンサートの作法とか形式とか一般論とか。

 すでに吹雪も他の観客も、誰しもが次のプログラムを待ちきれないでいたのだから。



   ♫



 オリヴィエ・メシアン 作曲

『四つのリズム・エチュード』


 二曲目はスピーカーを使わず、なんの変哲もない純然たるピアノ・ソロだった。

 変哲もない、というのは形式上の話で、吹雪にとっては相も変わらず不可解で摩訶不思議で、それでいて圧倒的かつ魅惑的な未知の音楽だった。

 四曲で構成されたこの曲はメシアンの作品の中でも、1950年当時において実験的で前衛的な取り組みが多く為されている。


 純音列技法トータル・セリエリズム

 十二音技法など、音の構成要素のうち『高さ』を重視する作曲技法(音列技法セリエリズム、と人は呼ぶ)が注目されていた時期に、メシアンはこの曲の中では『高さ』のみならず『大きさ』や『強さ』、そして『色』も感覚に頼らず理詰めで操作していく技法にこだわった。

 メシアンやこの曲に影響を受けた作曲家は少なくない。のちの電子音楽の発展にも貢献している。

 ただ、作曲家や作曲技法の系譜に関しては、今の吹雪にはそれほど重要ではなく。

 同じフランス出身でも、ミヨーとメシアンでは演奏難易度が天地の差だ──という点のほうがずっと強調するべき問題であろう。


(メシアンとかいう作曲家もドギツイ……でもかっけえ……)

 吹雪はちらりと菜穂子の横顔を伺う。

 間近で眺める菜穂子はいつも通り気難そうな顔を作っていたが、プロの演奏にどこか安心しているような、少しだけ柔らいでいるような印象も抱く。

(先輩はこういう技巧的な曲が好きなのかな? こんな楽譜ばっかり書いてるんだろうか……)

 憧れを持つと同時に不安も出てくる。

 ペンチとか図形とか、小細工を一切使わず音符のみが書かれた、菜穂子という作曲家の純然たる楽譜というものを、吹雪は何気に一度も目にしていない。

 どうにかソロコンでの委嘱の約束を取り付けたは良いものの、いざ菜穂子に楽譜を預かっておきながら、もしも自分がそれらの音をちゃんと形にできなかったら……。

(もはや全国大会とか金賞とか、そういう次元じゃない、、、、、、、、、、や)

 ステージへ向き直り、吹雪は苦笑いを浮かべた。

 演奏を終えたピアニストが椅子から立ち上がり辞儀ををする。拍手がひとしきり止んだ頃、ついに演奏者が、ステージ上にあらかじめ用意されていたハンドマイク握った。



「えー、本日は『電子的ElectronicパンデミックPandemic』にお越しくださり、誠にありがとうございます」


 ピアニストが語り始める。

「この若手音楽家グループ『新しいNouveau集団Groupe』はもともと、私と、この後に演奏するピアニストとサクソフォニスト、パーカショニスト、そして作曲家でもありグループ全体を取りまとめる、トータルコーディネーターの五人で活動をスタートしました」

 華奢ですらっとした鼻立ちの若い女性であったが、どこか貫禄もあり、薄い唇から紡ぎ出す言葉も流暢だ。

「結成したのは2020年の春先です。皆様、覚えていらっしゃいますか? ええ、そうです。ちょうど、新型コロナウイルスが世界中に広がり始めていて、コンサートやライブが軒並み中止になっていた、皆様にとっても私たち音楽家にとっても一番たいへんな時期でした」

 吹雪は息を止めた。当時はまだサクソフォンにも触れていなかったが、卓球部の練習や大会もままならず、おろか中学に登校さえできないような時期もあったくらいだ。

「そんなコロナ禍でほとんどの音楽家たちが活動を停滞させていた中、私たちは新しいグループを作ることにしました。今の時世でも……いえ、今の時世だからこそできる新しい音楽や音楽活動を追求してみようと、トータルコーディネーターの彼が私たち演奏家を誘ってくれたんです」

 吹雪は何度かまばたきをした。思わずプログラムの表紙を膝上で小さく掲げる。

「記念すべき第一回公演はホームページ上での演奏動画公開、、、、、、、、、、、、、、、という形で開催しました。リモート演奏という、演奏者が各自で撮影した映像を編集して合わせる方法は、私たちだけでなく他の音楽家たちも一斉に取り組み始めた活動のひとつです。メイン曲は彼がグループのために書き下ろした、メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』をもじった内容で……まあ、メシアンのアレは感染症ではなく戦争の影響で本人が牢に入れられていた時期の曲ですけれども」

 第四回公演──あんな時期から、この2023年までにもう四度も演奏会を開いたということか。


「第二回公演はコンサートホールを借りての、いわゆる無観客開催でした。初めて今回のように皆様と直接お会いできたのが、昨年の第三回公演です」

 ピアニストは穏やかに微笑む。

「私たちはいつも、今ある音楽や今だからこそ出来る音楽活動と前向きに関わってきました。この第四回公演は、感染症の流行をきっかけに出会った私たちが、皆様へ音楽の最先端、新しい流行をお届けしたい──音楽のパンデミックを起こしたいという思いで開催しております。どうぞ最後まで、ごゆっくりお楽しみください」

 もう一度ピアニストがお辞儀をすると、ホールは暖かな拍手に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る