二人の作曲科と一人の高校生

 円形のコンサートホールでステージを囲んでいたのは客席のみにあらず。壁にはいくつものスピーカーがステージを中点とし、おおよそ対角線上になるよう配置されていた。吹雪ふぶきが確認した限りでは、八台。

(もしかして、鳴るのか? 楽器の生演奏だけじゃないんだ⁉︎)

 訳が分からない半分、物珍しさでそそられる半分。席と席の間でしきりに辺りを見渡していると、

(あっ!)

 ついに見付けた。

 吹雪が立っている位置とは真反対側の、スピーカーとやや距離を置きつつステージからも近過ぎない、ピアニストの手先がしっかり映るような絶妙な席を陣取ったボサボサ頭。

 ある意味でこの演奏会最大のお目当てへ足早に寄っていく。直接話しかけるまでに残り二〇席ぶん、十席ぶん、五席ぶん。

菜穂子なおこ先ぱ……」声が届くところで吹雪は片手を挙げかけて、「あっ……」すぐ降ろす。

 意中の人は、隣の席に腰掛けている男と話し込んでいた。プログラムに目を落としたまま何やら神妙そうな面持ちで、おそらく雑談なんて気軽なものではない話を。

 ただし、相手の男は身なりだけで言ったら菜穂子よか遥かに気楽そうだった。髪色がやたら明るいせいもあるだろうが、表情は柔らかく口角が上がっており、いかにも現代の大学生っぽい雰囲気を醸し出している。

 よく見れば男はスーツを着ているものの、ピアスらしき赤いアクセサリを付けているし、日頃から全体的に暗い雰囲気の菜穂子とは対極の極みみたいな陽キャ感。スーツが絶望的に似合っていない。真っ当なアルバイトや就活の面接はまず受からないだろう。


「……ん?」

 声をかけ損ねた吹雪に先に気が付いたのもその男だった。顎でくいっと吹雪を示し、

「ナオ、あれ知り合い?」

 菜穂子の視線を誘う。ようやく顔を上げた菜穂子も吹雪を見るなり、「あー……」と塩対応にも限度ある返事だ。

 もっとも、吹雪が今考えるべきは菜穂子の塩でも、醤油でも赤味噌でもないのだ。お隣さん、なんて言った? ていうか呼んだ? あの菜穂子を「ナオ」って呼んだか?

 まさか存在したのか──このドギツイ先輩に『愛称ニックネーム』などというチャラついた名前が!

「あっあの、えっと、先輩」

 吹雪が気を動転させたまま、何を次に話すべきか困り果てていると、

「誰? 高校の後輩?」

「違う。たまたま遭遇した。こいつ睦ヶ峰むつがみね志望で」

「へー……え、ひょっとして生徒? ソルフェでも教えてんの? ナオ、そういう仕事はやらないって言ってたじゃん」

「違うって」

 双方ともに低い地声で好き勝手に話を膨らませ始めてしまう。あれとかこいつとか、たまたま遭遇とか、まるでゲームの草むらで急に出てくるモンスターみたいな扱いだ。

 せめて菜穂子先輩は名前で呼んでくれ! とすがるような気持ちで吹雪は声を絞り出す。


「あの、先輩。僕も隣で一緒に聴いても良いですか……?」

「は? なんで? 嫌だけど?」

 ──また三段活用かよ! 感度高い! 拒絶反応レベルが異常値過ぎる!

 吹雪の心はぼっきり折れかけたが、助け舟を出したのはまたも陽属性の男だった。

「ちょいちょ〜い、可哀想じゃんナオせんぱ〜い」

 男は横でツンツンと菜穂子の肩をつつく。

「いいじゃん一緒に聴いてあげれば〜ここ一番聴き映えする席だしさ〜」

「触んな」

 菜穂子は男の指を鋭い言葉と片手で払いのけた。やはり彼女は誰が相手でも塩対応らしい。

 ただ、吹雪は男の存在がどうにも引っかかった。愛称で呼ぶだけじゃ飽き足らず、馴れ馴れしく菜穂子の身体に触れようとする、パーソナルスペースがばがばな男。

 本当にチャラい男は誰にでもチャラいとも話に聞くけれど、菜穂子は菜穂子で態度ではつっけんどんにしていても、彼を真の意味で毛嫌いしているわけではなさそうで……なんというか、あともう一押しでデレてくれそうな前兆がひしひしと伝わってくる。

 吹雪は空いていた隣の席に座りつつ、ずっとモヤモヤした感情を渦巻かせていた。わざとらしくため息吐く菜穂子を横目に、

「あ、あの……その人は……?」

 おそるおそる男の素性を探った。菜穂子はむすっとした顔で、なぜかプログラムを開く。

「ん」

 指で示されたのはさっきも吹雪が眺めた演奏曲目だ。それも、一番上の。

「え……は、はやしつばさ……さん?」

「そう、それこいつ」

「それとかこいつとか紹介適当過ぎんだろ、はははは」

 その適当さを笑って許してしまう男もどうかしている、と吹雪は青ざめた。

 失念していたが、プログラムには「委嘱」の文字も含まれていた。以前の菜穂子もそうであったように、一曲目のプログラムは健在の作曲家が新作を書き下ろしたというわけか。

 しかも、その作曲家ご本人が吹雪の目前でへらへらとしていた。


「す、すみませんっ! 全然気が付かなくて……」

 背筋を伸ばし上半身を菜穂子から若干引き気味に、

「そ、それにお隣失礼しちゃって」

「いーっていーって」

 吹雪が立ち振る舞いを改めかけても、やはり翼は寛容だ。

「俺、ナオとおんなじ二年だし。つーか、高校生のうちからあんまり畏まらないほうが良いよ? もっと生意気に調子ぶっこいてこうぜ」

「お前は調子に乗り過ぎだよ、翼」

「ははっ、ペンチ女、、、、にだけは言われたくねー」

「な……う、るさい!」

 翼に言い返されると菜穂子はカッと頬を真っ赤に染め上げる。ペンチという単語で吹雪が固唾を飲むかたわら、

「いや〜あれは睦ヶ峰むつがみね史に残る名演奏だったな〜。俺の中では『4分33秒』超えたかも。あ、もちろんペンチだけじゃなくて強制退場させられるまでがセットな?」

「うるさいって! もうやらないから……」

「次回作では何をやらかしますか、ナオせんせー? 今書いてるの弦カル、、、だっけ? じゃ〜ひょっとして、第一楽章がリアルタイムでヴァイオリン解体ショー、第二楽章でパーツ総組み替え、第三楽章で魔改造楽器お披露目からの『ぼくがかんがえたさいきょうのかるてっと』かな?」

「もうやらないってば、だから触んな! やりたきゃお前が勝手にやれ!」

 完全にイジり倒されている。オーキャンからひと月も経っていないのに、もはや菜穂子の武勇伝として語り継がれる一歩手前って感じだ。……いや、菜穂子本人にとっては黒歴史か。

(あれってもしかして、作曲科にとっては笑い話にできる類のパフォーマンスなのか……?)

 見る人次第では二度と菜穂子とは関わりたくないとさえ思わせるほどのインパクトがあったはずだが、さては同じ作曲家の卵にしてみれば、無許可だったという点を除けば常識の範囲内ということだろうか。


 だとすれば──吹雪から見ても、『作曲科』という人種は末恐ろしい。



「あ、きみ『4分33秒』って分かる? ジョン・ケージの音出さねーやつ」

「え? あーはい、なんとなく……あの」

 話題を振られた吹雪は頷きつつ、素直に己の興味に従った。

「楽器の解体とか改造って、そんな簡単にできるんですか?」

「ん〜どうかな〜? バラすぶんにはバラせるんじゃね? ヴァイオリンは特に繊細な楽器らしいから、変にバラすと音自体まともに出せるか怪しいけど」

 翼が顎に手を当ててあさっての方角を向く。

「ピアノならそれこそ、ケージが魔改造した『プリペアド』が有名じゃん?」

「ぷ、ぷり……なんですか?」

「プリペアド」翼の証言に、菜穂子が説明役を買って出た。

「リアタイじゃなくて、演奏前に改造して『準備プリペア』を済ませておくんだよ。弦に板挟んだり、クリップで摘んでおいたり」

「さらにその弦をマレットで叩いたり、定規で擦ったりするんだよな」

 吹雪は自分に可能な限りでプリペアド・ピアノの状態をイメージする。次第に事の重大さを理解していったか、

「ええ……? オーキャン並みにやばくないっすか、それ?」

「お〜。ま、ナオがやったペンチと似たようなもん、、、、、、、よ」

 怪訝そうに大学生二人を見据えると、菜穂子はともかく翼も平然としていた。

「だからこそ大学でもこういうホールでも、プリペアドや内部奏法はなかなか許可が下りない……ってか、きみ、もしやオーキャン見てた?」

「は、はい。なんていうか、その……めっちゃ面白かったです!」

「ぎゃっはは、まじかよ! 面白かったってさ! ファンがいる、ここにペンチ女のファンがいるぞ!」

 ステージにまで響きそうなほど大声で笑い出す翼。吹雪はわざわざ言い加えなかったが、あのオーキャンこそ、吹雪にとっては菜穂子という作曲家と出会った始まりの日だ。


 菜穂子はバツが悪そうに吹雪から目を逸らす。

「まあ……プリペアド・ピアノは現代音楽の中じゃ本当に有名だから、これ終わったらあとでちゃんと調べな」

「わっ分かりました! 今メモります」

「や〜ほんと、プリペアドこそ今日の演奏会でやって欲しかったよな〜。あの楽器はマイクで音拾ってからが本番、、、、、、、、、、、、、みたいなとこあるだろ? ナオもさ、謹慎解けたら文化祭あたりでやろうよ。次はちゃんと正式な手順踏んでさ」

「やだ。『4分33秒』とかハプニング音楽とか、ネタに走っただけみたいな曲は書きたくない」

「ええっ⁉︎ なんだって、オーキャンのあれはネタ曲じゃないって⁉︎ つまりなんすかナオせんせー、ガチでペンチしたってことっすか⁉︎」

「あぁああもうしつっこい! とにかく、ああいうのはもうやらないから!」

 再び揉め始める二人。

 菜穂子がふらりとこぼした本音に、吹雪はプログラムへシャーペンを走らせる手を止めた。

「書きたくないって……先輩、オーキャンの曲は嫌いですか? 前に教えてくれた図形楽譜とか……あっもしかしてパフォーマンス系も……」

ちがっ、そういう意味じゃ……まあでもパフォーマンス系はウケ狙いっぽくて基本的には……」

「えっ駄目ですか? 歌ったり踊ったりはやっぱり駄目っすか⁉︎」

「あーもーややこしい! 要は音が面白くならないなら意味ない、、、、、、、、、、、、、、、って言いたいの」

「えっ? でも『私はI'm見ているSeeing』は音もめっちゃ面白かったですよ?」



 ここで、開演を知らせるブザー音がホール中に鳴り響く。

 まもなく演奏会が始まろうとしている中、菜穂子を取り巻く空気の流れだけが吹雪にも、翼にも止まったように見えた。



「……な、ん」

「僕のソロコンでもああいう、めっちゃカッコいい曲書いてください!」

「……」

 吹雪を凝視したまま菜穂子が黙りこくってしまったのは、翼がくすりとも笑い飛ばせなかったのは、この空間が開演間際だから──ではなかっただろう。

 それほどに吹雪の顔つきは正直で純粋で真っ直ぐで、刹那たりとも嘘や迷いを匂わせない、菜穂子の音楽と本人以上に、、、、、真剣に向き合う、演奏家そのものであったのだ。


 ──まったく。

 音楽の世界とも音楽家たちの業界とも、まだなんのしがらみも持たないがゆえに、『高校生』という人種は末恐ろしい。

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