音楽はミステリー



   ♫



 さかのぼること、五月末。

 定期演奏会に夏コンと、相次ぐビッグイベントへ向け部員総出で士気を高めていく──といった、大事な時期の日曜午後である。

(そろそろか)

 空き教室で自主練習をしていた吹雪ふぶきは、掛け時計を見るなり立ち上がる。今日のぶんの合奏はすでに終わっていた。

 サクソフォンを抱えて教室を出ると、

「ね、吹雪!」

 音楽室まで続いた廊下の途中、別の教室から声をかけられる。

 後輩たちと椅子を並べ、トランペット・パートで練習していた中本なかもとだ。

「ちょっと練習付き合わない?」

 中本が開放した窓からひょこりと顔を出す。

「さっきの合奏で水崎先生に指摘された箇所あったじゃん。サックスとペットのユニゾンが音程合ってないって」

「あー……」

 そこの記憶は吹雪も鮮明に残していた。『青銅の騎士』でもとりわけ有名な『舞曲Dance』の中で、複数の楽器が同じメロディを演奏するセクションがある──ただ。


(あのメロディ、わざわざパート分けてあるんだよな)

 吹雪は分かっていた。元々はピアノ・ソロの曲を吹奏楽の編成向けにアレンジしてある楽譜だからこそ、本来ならば同じパートで吹き続けたい長いメロディを、息が保たないからと編曲者の配慮によって、1stファースト2ndセカンドであらかじめメロディが分割されていると。

 そして水崎先生が演奏を止めたのは、2ndセカンドパートがメロディを担当していた時。

 吹雪は『青銅の騎士』では1stファーストパートを担当しており、パート譜には全休符しか書かれておらずマウスピースからも口を離していたようなタイミングだ。

 ──サックスとペットの音程が合っていない?

 いいや違う。サックスの2ndセカンドパートとペットの1stファーストパート、がより具体的で正しい指摘だ。水崎先生はそこまで名指しじみた指摘の仕方はしなかったけれど。


「ここのセクション大事じゃん? 明日の合奏でも先生に同じこと言わすわけにゃいかないし」

「ご、ごめん」

 瞬時にさまざまな思考を巡らせた吹雪は眉を下げる。

「もう学校出ないといけなくてさ。また今度!」

 中本の返事を待つ暇もない。嘘を吐いているわけでも面倒くさがったわけでもなく、本当に名古屋へ急がなければならないんだ。

(だいたい、俺がパート練付き合っても意味ないじゃん……2ndセカンドとやれよ)

 内心ではそう思っていても、中本へ直接告げるだけならともかく、同じサクソフォン・パートの子たちにまで伝えてしまうのは「自分ではなくお前らの音程が悪い」と遠回しに主張しているように聞こえ、なんだか感じが悪い。

 何だったら、あのくらいの長さなら分割しなくても自分であれば一息で吹ける。わざわざ担当パートを変えるから音程も変わってしまうのだ──とも思ったが、だからと言って自分一人で吹くわけにもいかないのが吹奏楽の難しいところだ。

 吹雪は足早に廊下を通り過ぎていく。その背後でトランペット・パートの一年が「佐倉さくら先輩、最近ずっと忙しそ〜」と純朴に呟いたのは、幸か不幸か、吹雪の耳まで届かなかった。



   ♫



 吹雪が目指すは、菜穂子なおこも来るであろう名古屋の演奏会。

 JRジェイアール安城あんじょう駅から名古屋駅で乗り継ぎ、地下鉄桜通さくらどおり吹上ふきあげ駅で降りる。名古屋の地下鉄といえば東山ひがしやま線が有名で、ちょうど通勤通学の時間帯とかぶったせいで駅構内は人で溢れかえっている。

(ひえぇえ! 楽器置いてきて良かった……)

 桜通さくらどおり線はまだマシなほうだったが、東山ひがしやま線は今頃きっと……。

 もしや睦ヶ峰むつがみね芸大に実家から通うとしたら、毎日あんな満員電車に乗り込まなければならないのだろうか。吹雪はそう遠くない未来にゾッとしつつ改札を抜けた。

 ──この時の吹雪はまだ、一人暮らしするという選択肢は持っていないらしい。

(えーと、ちくさ文化劇場……っと)

 地図アプリで目的地を探せば、演奏会の会場までは駅から目と鼻の先らしい。

(先輩、待ち合わせとかしてくれなかったな)

 リュックサックからガサゴソと、菜穂子に渡されたチラシとチケットを取り出す。チケットは本来お金がかかるはずが、「誘ったのはこっちだから」と菜穂子が代わりに出してくれたので吹雪はタダでプロの演奏を拝めるというわけだ。

 喜んでチケットを受け取った吹雪が、オーキャンで秋音あきねともそうしたように「じゃあ一緒に会場行きましょうよ! 最寄駅から……や、名駅からとか!」と誘ったところ、むすっとした菜穂子の回答はこうである。

「は? なんで? 嫌だけど?」

 断固拒否の三段活用。にべも無いとは、菜穂子のために存在する言葉であったか。

 まったく菜穂子とかいう女子大生は、親切なんだか不親切なんだかよく分からない人を食ったような先輩──と、吹雪は膨れっ面するしかない。


 開演およそ三〇分前。

(わ、すげ。壁が緑でぎっしりだ)

 ちくさ文化劇場に着くなり吹雪は感嘆する。緑でぎっしり、というのは言葉の綾で、実際は壁全体にツル科の植物が張り巡らされた、いわゆるグリーンカーテンというやつである。

 会場に入るなり、吹雪はきょろきょろと周りの客層を確かめた。若い人からお年寄りまで、年齢層に特段偏りがある感じではないものの、吹雪みたく学ランや学生服を着ている客はいなさそうだ。

(ていうか、コンサートでもお客さんすくなっ……絶対に満席じゃないよ、これ)

 名古屋駅とのギャップに戸惑いながらロビーへ向かうと、スーツ姿の女性がチケットを切ってくれる。手渡されたプログラムはホッチキス留めされていて、紙切れ一枚だったオーキャンよりかは真面目に本の体裁を保っている。

 吹雪は少しだけ通路を進んでから、そっと演奏曲目のページを開いてみた。


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新しいNouveau集団Groupe 第四回定期公演『電子的ElectronicパンデミックPandemic

※()内の数字は作曲年


〈委嘱作曲、世界初演〉

はやしつばさ『名古屋駅のスクランブル交差点にメシアンが転がっている』(2023)


オリヴィエ・メシアン『四つのリズム・エチュード』(1950)

エイノユハニ・ラウタヴァーラ『ピアノ協奏曲第一番』(1969)

   〜休憩〜

ヤコブ・テル・ヴェルデュイ『GRAB IT!』(1999)

ルチアーノ・ベリオ『セクエンツァIXb』(1981)

スティーヴ・ライヒ『Nagoya Marimbas』(1994)

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(……うん。一曲も分かんね)

 吹雪はそっとページを閉じる。1900年台の作曲家と言うなら、せめてドビュッシーとかラヴェルあたりが一人くらい登場しても良さそうなものを。

(でも最初の曲名はどっかで聞いたような……なんだっけ? ミステリー小説?)

 吹雪に言わせれば現代音楽そのものが『謎だらけミステリー』だ。

(菜穂子先輩、もう来てるかな……)

 使い物にならないプログラム片手に、開かれたホールへ続く扉を抜ける。

 吹雪はその先の光景に──およそ自分が持っていた『コンサートホール』という空間の常識を、大きく逸した様相にびたと立ち止まった。

 客席がステージをぐるりと三六〇度に取り囲んでいたのだ。従来のホールみたく、客席がずらりと並んだ前方にステージがあるのではない。

 ホール全体が長方形ではなく円形。正面からステージを一望するのではなく、ほんの少しだけ高い位置からステージを見下ろすようなホール設計になっていた。

(おもしろ! これなら、どの席に座ってもちゃんと演奏が見えるじゃん……)

 そして肝心のステージには、グランドピアノが中央でどっしりと構えており、円の隅のほうには木琴マリンバ二台が避けられている。


 どこへ座ろうか吟味しかけた吹雪は、壁際でもうひとつの『不思議ミステリー』を発見する。

 曲単位ではなく、演奏会そのもののタイトル──『電子的エレクトロニック』をふと思い出しながら。

(スピーカー……?)

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