SECTION.4 音楽で起こすパンデミック
夏の終わりと始まり
八月頭。
吹奏楽を愛するすべての中高校生が待ち望んだ夏の祭典──『全日本吹奏楽コンクール』。
その愛知県大会二日目が、
出演順十六番、
課題曲:四番
自由曲:グリエール 作曲『バレエ組曲〈青銅の騎士〉より』(編曲版)
トライアングルが鳴り続く中、最後の
(……ま、こんなものか)
そんな客席を、
水崎先生がお辞儀を終えれば、演奏者たちはすぐに舞台袖へ捌けなければいけない。吹雪も他の部員たちも、最後までやり切った達成感でぼうっとしている暇はないのだ。
そそくさとステージを降り、舞台裏を通り抜け、指定された大部屋で楽器を手早く片付けていく。そうしている間にもステージでは次の出場校の演奏が始まっていた。
(
吹雪はサクソフォンをケースへしまうと、細かく畳んで学ランの胸ポケットへ詰め込んでいたプログラムを広げる。
先月下旬の西三河南地区大会を勝ち上がった城安東は、県大会では大会二日目、しかも後半のかなり遅い出番となった。
そして
(二十番……うわ、大トリじゃん)
プログラムに風ヶ丘の名前を見付けるなり感嘆の息を漏らす。それを見計らったかのように、背後から
「閉会式までもうすぐだから、片付け終わった生徒はそのまま客席へ行くように! できる限り同じ高校で席を固めて、ばらけないでね」
部活動において団体行動は基本だ。もちろん吹雪も指示に従う。
城安東の場合、六月の定期演奏会が終わるタイミングで、部内ではおおむね三年から二年へと役職の引き継ぎも済んでいた。ちまたでは『夏コン』とも呼ばれる、三年にとって最後のステージはどうか演奏に集中してもらいたいという後輩たちの計らいだ。
(さすが中本。部長がもう板に付いてやがる)
大ホール客席へ入る頃には、ちょうど風ヶ丘がステージ上で演奏の準備を進めていた。
吹雪の幼なじみ──
(……さすが風ヶ丘。大トリの風格)
着席しながら吹雪は自嘲気味に笑った。
城安東が演奏していたついさっきまではそれほど埋まっていなかった客席が、今やさまざまな制服を着た高校生たちで埋め尽くされている。
それははたして、閉会式まもない時間だったからか。
あるいは、今から演奏するのが全国大会金賞常連の強豪校が魅せる今年最初の演奏だからか。
出演順二〇番、風ヶ丘女学園。
課題曲:四番
自由曲:
夏コンでは課題曲と自由曲、二曲の演奏が各出場校に定められている。特に課題曲は『作曲コンクール』として公募で楽譜を集めており、入選した
課題曲は城安東と同じ、マーチ調の四拍子でシンプルな曲だ。しかし指揮者がタクトを振り下ろした瞬間、客席は音に呑み込まれた。
少しの濁りもなく、それでいて立体的なハーモニー。フルートのアルペジオは高音でありながら明快で軽く、クラリネット・パートは大所帯でありながら旋律が一本の太い線で見えるようだ。チューバとコントラバスの水面を跳び上がるようなベースラインは、余韻に底を見せることなく、かといって深みへ沈むこともない。一音一音が、埋もれずにくっきりとステージ上に浮かび上がっていた。
城安東と同じ課題曲でありながら、ホールで鳴り響いたのは吹雪の知っている音楽でも音響でもなかった。
(すっげー……)
口を半開きにしながら呆然とステージを眺めていた吹雪は、ふと秋音との
風ヶ丘が課題曲に『
〈今年から五番、
字面だけでも秋音のつまらなさそうな感情が滲み出ている。
〈そんなに五番やりたかった?〉
〈だって他の課題曲はどこの学校でも演奏できるじゃん〉
そうなのだ。課題曲五番はいつも、やたらと小難しくて音符も細かくて、メロディと呼べるフレーズが見当たらず聴き馴染みに薄い。
よって風ヶ丘くらいに基礎的な演奏技術が備わっていない学校でなければ、演奏自体が困難という、なぜ存在しているかもよく分からない課題曲なのだ。城安東も、五番は初めからプログラム候補として外されるため課題曲は実質四択になる。
そんな五番も、
自由曲『パガニーニ・ロスト』も、超絶技巧のヴァイオリニストで知られるパガニーニの名を冠しているだけのことあって、開幕からサクソフォンの長いソロが炸裂していた。
(かっけー……確かに、このソロなら誰にでもは吹けないな)
誰にでもは演奏できない──言い換えるなら、その演奏者にしか演奏できない。
自分たちの番を終えたばかりだというのに、吹雪は座ったまま、無性に楽器に触れたくなりうずうずした。ステージの端っこで険しい表情をしながら、懸命に弓を引いている秋音が羨ましく思う。
(ああ……そっか。課題曲五番もこの曲も『現代音楽』ってやつだったのか)
ゴールデンウィーク明け、初めて菜穂子とセッションしたことで新しい音楽の世界の扉を開いた吹雪は、これまで大して理解できなかったし関心も持てなかった曲の良さや存在する価値、今も数多の作曲家によって続々と新しい曲が生み出され続けている意味をようやく知る。
菜穂子と出会っていなければ、一生知り得なかったかもしれない世界。
同時に、この部活動を始めていなければ関わりも交わりもしなかったであろう世界だ。
風ヶ丘の演奏が終わると、たちまち大ホールは拍手の音で飽和する。
吹雪は周りに合わせて手を叩きながらも心ここに在らずだった。もっとこの熱気に包まれていたい、吹奏楽ならではの広大なサウンドに浸っていたいと感じる半分、ひしひしと気分を滅入らせたのは一週間ほど前に告げられた、水崎先生からの説法で。
(……やっぱり、続けられないのかな)
ふと視線を巡らせれば中本や、自分と同じ制服を来た部員たちの顔がある。ずっと同じ音楽を奏でてきた、大事な仲間たちだ。
吹雪が憂鬱の海から帰ってこないうちに、粛々と閉会式は行われ、審査員による結果発表も司会者の口から淡々と告げられた。
城安東は今年の県大会も銀賞だった。対する風ヶ丘は金賞、至極当然のように東海大会への出場も決めた。きっとそのままの勢いで全国大会への切符も手にするだろう。
かくして城安東高校吹奏楽部の夏は終わった。
だが、吹雪の夏は──夢への挑戦は、むしろここから始まるのだ。
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