音楽の底無し沼
(こいつ、全身を楽器みたいに動かすのな……)
内心では
「アテはあるわけ? サックスの先生。東京芸大でなくたってソルフェージュに楽典、ピアノも独学で済ませられるほどナメられた受験科目じゃないけど?」
現実味を帯びた問いかけにビタと動きを止め、吹雪は小動物みたいにまん丸な目で菜穂子に縋りつく。
「後半……は、先輩が教えてくれても」
「やだ」菜穂子は否定や拒絶をする時の返答だけはやたら早い。
「私、レッスンとかピアノ伴奏とか、作曲の活動と直接関係しない仕事は学生の間はやらない方針なんで」
「ええ〜……」
しかし、ただ断るだけでなく菜穂子が起こした次の行動も早かった。
スマホをささっと弄り出すなり自分の耳へ当てる。急に誰と通話するつもりかと吹雪が固唾を飲んで見守っていれば、
「もしもしー?
菜穂子は涼しい顔で、通話先の相手を先生と呼んだ。
「今レッスン中ですか? 喋る時間あります? ……あーそっすか。じゃ、もしかしてこの時間って毎週レッスンの枠空いてたりします?」
あまりに突然のことで、吹雪が口を挟む余裕さえ無い。「え、あ、ええっ?」と困惑気味に菜穂子へ近付いていけば、
「だから寄んなって」再び菜穂子に肘で拒まれてしまう。
「先生んとこで面倒見てもらえません?
──ヤバそうってなんだ? どういう偏見? 僕の何を見て判断した? っていうか、レッスン見てもらう先生がもう決まりかけてる⁉︎
吹雪は慌てて部屋の時計を探した。可愛げのかけらもないシンプルなデザインした掛け時計は午後四時を示している。本人が目前に居ながら会話にはまったく参加しないまま、一分も経たない間にとんとん拍子で話が進む。
「私が昔ピアノ習ってた、音楽教室の花村先生。お前、来週のこの時間に一回面接受けてこい」
菜穂子が真顔でスマホの通話を切った時にはすべてが終わっていた。
「お、オッケーだったんですか⁉︎ 今の適当な流れで⁉︎」
花村先生について吹雪が読み取れたのは、かすかに漏れ聞こえた声色からして、人柄の良さげなおばさん先生かな……たぶん、ということくらいか。
「あとはサックスか。サックスねえ」
「ねえ話聞いてます⁉︎」
自分は作曲科だから楽器のことはうんぬんかんぬんと、三日前はあれほどツンケンしていた菜穂子のムーヴメントにも展開の早さにも付いていけない吹雪であった。(さてはデレか? デレが来たか?)とかほざく余裕がもっとあれば良かったのに。
吹雪は脳内タイプライターで、懸命に来週のスケジュールを思い出す。吹部の定期演奏会のリハーサルって土曜だっけ? 日曜? あれ、そもそも演奏会本番まであと何週間?
(そ、そうだ夏コン! 定演終わっても今度は夏コンが……!)
さすがに暴走する菜穂子を放ってはおけず、リュックサックからガサゴソと何かを取り出そうとしている腕をがしりと掴んだ。
「せ、先輩!」
「寄んな、触んな!」
「レッスンの先生探してくださるのは嬉しいですけど……僕、来月は部活が忙しくて……」
床に屈んでいた菜穂子は睨みつけるように吹雪を見上げる。ドギツイ先輩が凄むと、ボサボサの長髪も相まってヤンキーさながらの貫禄が出てしまう。
「それさ、入試まで猶予ないって分かってる発言?」
「いっ一番忙しい時期なんです! ピアノのレッスンは行きます! 行きますので、その、サックスの個人レッスンは夏休み……お盆明けくらいからで、どうか……」
今月は
来月は日本中の吹奏楽部員が躍起になるであろう夏の大編成コンクール、略して『夏コン』。
例年の成績や合奏の雰囲気的に、おそらく今年の夏コンも長引いてお盆前──早ければ
「……はあー」
そんなスケジュールを菜穂子も吹雪の表情から読み取ったか、露骨に大きなため息を吐く。
「じゃ、せめて顔くらいは出しときな」
菜穂子がリュックサックから取り出していたのは一枚のチラシだ。手渡された吹雪はしげしげとチラシを眺め、文面を読み上げる。
「『
理解が及ばない純文学を朗読している時みたいな感覚。吹雪の脳はしばし機能を止めた。楽器を手にした若そうな人々の写真がチラシ全体に載っていたため、かろうじて何かの演奏会だろうとは察したけれど。
もっと踏み込んだ推理をするなら、菜穂子のことだ、十中八九『現代音楽』絡みの演奏会だろうとも。
「この人ならレッスン見てくれるかも。生徒多いらしいから保証できないけど」
菜穂子は写真に映る一人を指さす。吹雪とは違うメーカーの、金ではなく銀色のサクソフォンを提げた明るい茶髪の男だ。
男の名前らしき漢字がチラシには載っていたが、あまりに特徴的過ぎたため菜穂子の教義に倣って英語表記を代わりに読み上げた。
「
「それ、今月末だから。日曜の夜なら部活終わりに名古屋行けるでしょ」
確かに行けないことはない、と吹雪はしぶしぶチラシを受け取った。
──この時点で吹雪は薄々気が付いていたのだ。
菜穂子が愛して止まない音楽とは、他のいかなるジャンルよりも新しく、奥深く、幅広く。
何より、可能性という名の際限なき底無し沼であると。
「……先輩も来ますか? これ」
「もちろん」
口角を緩ませずして、今日一番の朗らかな表情を作ってみせた菜穂子は、無知で無垢な男子高校生を口説く。──たぶん男としての吹雪ではなく、演奏家見習いとしての吹雪を。
「私が『
吹雪は頬にぷうと空気を入れた。
自他の見てくれに対してこれほど
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