『今は(Now Is)』

 やはり、菜穂子なおこが何を言わんとしているのかよく分からない。彼女の性格からして駄目なら駄目だと一刀両断しそうなものを。

 吹雪ふぶきは椅子の上であぐらをかいている菜穂子を不可解な目で見下ろす。

「えっと……つまり? 僕の演奏が良かった、ってことですか?」

「は? 全っ然駄目だわ」

 ぶった斬られてしまった。ちょっと自惚れを見せた途端、罵倒の雨が降り止まない。

「音の引き出し、持ってなさ過ぎ。今まで即興もろくにやってこなかったんでしょ? 生粋のクラシック育ち。部活レベル。楽譜に書いてあることを鵜呑みにする典型的な優等生気取り」

「げ、現代音楽だって楽譜ありきじゃないんですか?」

 言葉の矢で串刺しにされても吹雪はめげなかった。

「クラシック音楽の延長なんですよね? 即興ってそんな、ジャズじゃあるまいし……」

「ジャズもポップスもクラシックからの派生だっつの。つーか、今そんな話してないから」

 菜穂子はスマホを弄り始める。

「現代音楽にもいろいろあるんだよ、当然だけど。これ知らない?」

 ずいと見せられたのは、動画サイトに上がっているオーケストラのコンサート映像だ。立て続けに複数のリンクを開いていく菜穂子の指先は生気せいきを感じないほど白い。

 普通にタクトを振っていた指揮者が突然、発作を起こしたみたいに苦しみもがき、ふらふらと指揮台から崩れ落ちていく映像。

 次は普通にティンパニを叩いていた演奏者が、何をとち狂ったのか、そのティンパニへ頭をバリィと突っ込んでいく映像。

「あっ、これ見たことあります!」はっと思い出したように吹雪が叫ぶ。

「ティンパニの動画! 前にツウィッターでバズった、、、、ような……」

 うっかりネット用語を口走ってしまい、吹雪は慌てて手を覆った。バズる、、、というSNSエスエヌエスでしか使われない言葉が果たして菜穂子に通じるだろうか。

「バズってたね」通じた。さてはツウィッターのアカウント持っているのか?

「けど別にこれ、おふざけでやってるネタ曲とかじゃないから」

「そ、そうなんですか?」

「どっちもマウリシオ・カーゲルっていう作曲家が書いてる」


 前の動画は『フィナーレ』

 後の動画は『ティンパニとオーケストラのための協奏曲』


「『ハプニング音楽』っつってね」

「ハプニング?」

 吹雪は首を傾げつつ、そりゃあどちらも演奏中に起きたハプニング映像で違いないだろう、とも納得する。だが実際はどちらのハプニングも、作曲家の『楽譜』という指示によって故意に発生させられた現象なのだ。

「当時、一九五〇年代に美術家たちの間で流行はやってた表現手法を、カーゲルは音楽の分野に持ち込んで自分のスタイルとして採用した」

流行はやってた……? これ、昔もバズったんですか?」

「昔はネットなんて便利なツールは無かったけど、いつの時代も芸術家たちはみんな、新しいモノにも流行りモノにも敏感なんだよ──それぞれの『現在いま』を生きていた芸術家たちはね」



 現代音楽──いや、現代における『音楽』という分野そのものが、そう簡単にひとまとめには括れない芸術らしい。

 クラシックと呼ばれる『過去』の音楽を振り返り、まだ見ぬ『未来』を自ら生み出さんとする菜穂子が、必死に鮮烈な音を追い続けている『現在』。

 ゆえに、楽譜上で三本の線をあらゆる図形──音となる素材が行き来し、さまよい、いつか演奏者が新しい可能性を見出してくれる日を待っている。


 ──『NowIs』吹雪の番だ。



   ♫



「まあ要するに、現代音楽の中にはこういうパフォーマンスが絡む曲もあるって話」

「な、るほど……踊るのもアリ、ですか?」

 菜穂子の胸の内を探るように吹雪が顔をのぞき込もうとすると、

「寄んな」

「へ?」

「寄んな、暑苦しい」

 肘を前へ突き出し、吹雪の物理的接近を拒む菜穂子。

 いきなり自宅へ呼び出したり、スマホ片手に熱弁してきたりと、なんだか良い雰囲気になってきたなと思っていたところでこれである。菜穂子に分厚い心の壁を張られ、吹雪はどうも腑に落ちないと口を尖らせた。

「音で表現しろ、音で! これはそういうつもりで書いた楽譜じゃないんだわ」

「え……じゃあ先輩の、さっきのピアノはなんすか」

 吹雪が思い出したように、

「ここに英語表記も書いてありますよ。文字はちっちゃいけど……『サクソForフォンのためのSaxophone』って、ほら。ピアノ使うなんて書いてない──」

「あーもーうるさい! うるさいうるさいうるさいっ! 別に良いでしょ、楽譜書いた奴が良いっつってんだから‼︎」

 正論をぶちまけると菜穂子は顔を真っ赤にして怒鳴った。

 曲名の英語表記も確認しろと吹雪には伝えておきながら、自分はあっさり矛盾した言動を取るなど、菜穂子はどうしてか衝動に身を任せ墓穴を掘ってしまいがちだ。

「『ためにFor』イコール『ソロSolo』じゃ無いんだわ。より新しくて面白い音が出せるなら、楽器一本にこだわる理由がないわけ」

 菜穂子はピアノの蓋をどん、どんと乱暴に叩く。

「楽器を二つ使ったらイコール『デュオDuo』ってわけでも無いんだわ」

「へ、へ〜……」

 吹雪はあいまいに頷いたが、もしこの場に芸大生の一人でも居ようものならすかさず菜穂子へツッコミを入れてくれただろう──その曲がソロかデュオかは、楽器の数ではなく演奏者の数で決まるものだと。

「ほら吹いて。さっさと続き吹いて。お前が持ってない音の引き出しは、私の引き出しから補ってやるからさ」

「……先輩の引き出し……」

 ピアノと向き合ったまま急かされ、吹雪はふうっと大きく息を吐いた。

 菜穂子から無茶を振られ続けて愛想を尽かしたからでは無い。楽譜上に描かれた黄色いギザギザの線を見て、次に奏でる音のイメージがすでに付いていたのだ。

 音というか、フレーズというか。



「──っ!」

 フォルテで吹き鳴らされた旋律に、菜穂子は少し猫背気味だった背筋をぴりりと伸ばす。

 再現、いや再提示か。

 吹雪が選んだのは、ついさっき菜穂子が三分足らずで書き殴り、この狭い部屋で吹雪ただ一人のためだけに生み落としたワンフレーズ。

 もう一度同じフレーズを、次はピアノで奏でてみせる。その旋律は聞こえが小さくありながら、室内へ音を封じ込めたというよりかは、むしろ内から扉を開け、外の人間を手招きしているかのように開放的なピアノだ。

 大きな音を出さずとも、吹雪のサクソフォンに耳を傾けずにはいられない──そんな音色おんしょく。そんな表現。そんな演出。


「……はっ」

 そんな旋律を聴いた菜穂子は愉快そうに、あるいは不快そうに笑う。

 吹雪がしたのは、ハーフペダルで音に蓋をした菜穂子とは真逆のアプローチ。相手が年上だろうが会って間もなかろうが、他人の部屋にも心にもずけずけと踏み入っていく吹雪の性格が、サクソフォンから如実に現れていた。

「安直だね。他人ひと様が作ったメロディを持ち出すんが早過ぎるよ」

 放たれた評価こそ手厳しいものだったが、言葉の棘に反して菜穂子の表情は朗らかだ。

(ま、この楽譜をコラージュと解釈したんなら、引用やらオマージュやらも手法としては一応アリなんだけどさ)

 世の中にはパロディありきの楽譜もごろごろ転がっているわけで。

 とはいえ、現代音楽の手法なんか素人に毛が生えた程度の吹雪が、いちいち理解しているはずもないことは菜穂子もとうに分かっていた。

 ただ、菜穂子の新しい音を渇望する気持ちは、吹雪がサクソフォンを吹く前とは段違いに昂っている──と認めざるを得ない。

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