偶然の音楽と必然の音

(ちくしょう。……ちくしょう、ちくしょうちくしょうちくしょう!)

 吹雪ふぶきは脳内で地団駄を踏む。

(ちゃんと僕を見ろって、菜穂子なおこ先輩──もっと聴いてくれよ、僕のサックス!)

 やがて本当に地団駄を踏み始める。水風船が急に膨らみ、針で突き刺すように足で踏みつけられ破裂し、ズドン、ズドン、と重たいステップで。

 はたまた、水風船に熱湯を注ぎ込んだせいで皮が溶け落ち、熱湯が足へそのまま飛び込んできたのを、たまらず逃げ惑っている滑稽なピエロみたいに、トトン、タタン。

 もはや楽譜など見ておらず、吹いている音も無茶苦茶で考えなし。何度か床に積まれていた本を靴下で蹴飛ばしたような手応え、いや足応えもあったような。

「……………………」

 菜穂子はそんな吹雪の駄々っ子みたいなダンスを、ポテトチップスを噛み砕く口を止め、手も止めて食い入るように見ていた。面白がって馬鹿にしているのか、中本みたく気味悪がっているのか。


 ぴょんと飛び上がれば、音もおのずと高く跳ねる。キィ────ンッ‼︎

(げっ、リードミスしちゃった!)

 黒板を爪で引っ掻いたような、ひどく聴き心地の悪い音。

 暴れ回ったから体温が上がっているのか、感情が昂ると踊り出す奇行がバレて恥ずかしくなったのか、吹雪が真っ赤な顔で眉をひそめていると、

「それ!」

 菜穂子はガタンと椅子を揺らした。

「今のフレーズ、もっかい!」

 吹雪はその場で固まった。フレーズなんて呼べるような代物を吹いた覚えは無いぞと、立ち止まりきょとんとしていれば、ポテトチップスを手放した菜穂子がずかずかと歩み寄ってくる。

「図形楽譜から出てくるのは不確実で偶発的な音楽。でも、一人のプレイヤーが偶然から生んだ新しい音は絶対に再現できる、、、、、、、、

「ど、どういうことですか?」

「たまたまで終わらせるな。今の音を、この音楽にとっての必然、、、、、、、、、、、にしろ!」


 ──リードミスが必然になる音楽?


 楽譜を指さされたのは、真っ赤に燃えたぎり下の線で鎮座した刺々しい三角形。

「さっきのフレーズがこの図形の音だと仮定して。次に書かれているのは?」

「あ……青い丸、です。上の線に乗っかってる……」

「お前は今、真っ赤な三角だ。じゃ、今のお前にとってこの『青い丸』はどんな形? 次に出したいのはどんな音?」

 ワンツーマンの学習塾みたいなやり取り。もっとも菜穂子先生、、に指導されている問題は、答えが何かも分からない、何だったら確定的な答えすらないであろうフェルマーの最終定理よりも不親切な欠陥問題。

 だが──それが作曲家にとっての正答せいとうかどうかは知らないけれど、演奏家としての回答であれば、解くよりも前から自分の中にあったのかもしれない。


 黒板へチョークでらくがきするみたく、吹雪が再びサクソフォンを鳴らせば、菜穂子はぐんと閃きのボルテージを上げた。

 吹雪から背を向けガッタンと椅子へ腰掛け、ずっと閉ざされていたアップライトピアノの蓋を開く。

 ──菜穂子は、オーキャンぶりに、、、、、、、、ピアノの鍵盤へ両手を置いた。



 ポロン。ポロポロン。

 鉄琴グロッケンでも叩かれたのかと吹雪は勘違う。この部屋よりもさらに狭まった空間の中から、音に霧がかかったみたいにくぐもった響き。

 まるで聞いたことがないピアノの音色おんしょくに、吹雪はたまらずマウスピースから口を離す。

「なっなんですか、今の……?」

未来へ思い馳せた音、、、、、、、、、

 未来へ思い馳せた音。

 どうやって今の音を出したのかと質問したつもりが、いかにも抽象的で芸術的で独特な感性を浮き彫りにしたコメントが飛んでくる。

 要は、吹雪が奏でた『青い丸』へ、ピアノを使ってリアクションを取ったのだろう。

「ええと、ピアノって、そんな感じの音も出るんですね?」

「ん? ……ああ……」

 質問の意図を履き違えたと自覚してか、菜穂子は途端に決まりが悪そうな顔をした。中二病全開のコメントを返してしまい羞恥しゅうちしているのだろうか。

 やはり菜穂子という女性は、ドギツイ第一印象のわりに意外と一般的な常識や感性をも兼ね備えているのでは──と吹雪は再確認する。


「これ、ハーフペダルって言う」

「ハーフペダル?」

「ペダルって習い事レベルじゃ結構奥まで踏みがちでしょ。いつもより儚いピアノを表現する時なんかは軽く踏んで、中にあるダンパーを弦からほんの少し浮かせるくらいで良い」



 ──これは後日談である。

 家に帰るとすぐ、吹雪は菜穂子の見よう見真似で『ハーフペダル』なるものを実践してみるも、ちっとも同じような音が鳴らせずがっかりし、ふて寝し、しばらく自室のベッドから起き上がってこなかったという。

 ところが吹雪の家にあったのはグランドピアノで、さらに後日、学校の音楽室に置いてあるアップライトピアノで試せば、ようやく菜穂子に近いポロポロっとした音を再現できたのだ。

 大きなコンサートホールで聴くにはアップライトで中途半端なペダルの踏み方をすると、ちょっぴりチープな感じが否めない……が、どうやら菜穂子が求める音楽では時として、アップライトならではのおもちゃみたいな音が最適解になりうる場合があるらしい。



「は〜なるほど〜……『きらきら星』なんかはこの音で聴きたいっすね!」

 菜穂子にとっては当たり前でも、吹雪にとってはハーフペダルからはじき出される音がひどく新鮮に聞こえた。鍵盤へ落とした目を輝かせていると、

「あまり乱用すんなよ」菜穂子が念を押してきた。

「曲全体で肝心な部分だけに使うから効果が出るんだ。使い過ぎるとしつこい、ってかわざとらしくてフツーにうざい」

「な、なるほど……で、菜穂子先輩。未来が思い馳せた音、、、、、、、、、ってなんですか?」

 期待に満ちた目を向けられ、菜穂子は苦々しい表情を浮かべる。

「もしかして、曲名ですか? この曲名と何か関係があります? 『今は』! ナウ・イズ!」

「その話はあとで良い。さっさと続き吹けって」

「や、関係あるなら先に教えてくださいよ! 大事じゃないですか、そこ。……あ、もしかして楽譜の線が五本じゃなくて三本なのって──」

「しつっこいわ、お前!」今度は菜穂子のほうが座ったまま力強く足踏みをした。

なんだよ、曲のコンセプトとか解説を自分で語るの!」

「ええっ⁉︎」

「てか、お前のそれもなんなの⁉︎ サックス吹いててなんで急に踊り出したの? いきなりそんなパフォーマンスされんの、フツーにキモいんだけど!」

 急に怒りだした菜穂子に火の玉ストレートを投げ込まれ、吹雪は頬から耳の隅まで真っ赤に染め上げていく。

「か、体が勝手に動くんだからしょうがないじゃないですかあ!」

 いきなり観客の前でピアノの弦をぶち切る先輩にだけは言われたくない、という反論も一緒に出かかったがどうにか引っ込めた。

「勝手に動くっていうか、吹いた音とか気持ちがそのまま動きに乗っちゃうっていうか……」

 身振り手振りで弁明する吹雪に、菜穂子は感情が読めない難しい表情で黙りこくってしまう。


「……ダンスとか習ってたわけ?」

 菜穂子にやたら神妙な面持ちでたずねられ、吹雪は頬を硬くした。

「へっ? い、いえ」

「だろうね。あっそ。ふーん。……へー、それでああいう、日常的動作から少しはみ出た程度のナチュナルさか……」

「この癖、直した方が良いですか? 中本……部活の奴にも、しょっちゅうキモいって言われるんですよ」

「……いや……」

 まともにクシを入れてなさそうな長髪をわしわしかきむしりながら、どこか煮え切らない態度で菜穂子は答えた。

「自重した方が良い場面もそりゃあるんだろうけど。ただ私は、そういう動作をなんの訓練もしないでフツーにやれるのがキモいっつったわけ」

「結局キモいんじゃないですか。何が違うんですか、それ」

「そっか、ふーん、へー……お前、パフォーマンス系がやれるクチ、、、、、、、、、、、、、、か……」

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