SECTION.3 歌えや踊れや現代音楽

図形楽譜の世界

 吹雪ふぶきの頭の中は、今や音符ではなくハテナマークで埋め尽くされている。

 困惑されていると気付いていないのか、そもそも吹雪の心境など意に介していないのか、

「ほら早く」

 菜穂子なおこはアップライトピアノの閉ざされた蓋に肘を付けたまま演奏を急かした。


 小中学校の音楽の授業あたりで、誰もが習いそうな話だ。

 楽譜とは五本の線が引かれた『五線紙』で作られており、四分音符(♩)とか八分音符(♪)とか、音の高さと長さを示す『音符』という名前の記号が、線上に記されているのを演奏者が読み解くのである。

 だが、菜穂子の書いた自称楽譜、、、、を見せられた吹雪はたまらず、

「音符……どれ? ですか?」

 初歩的過ぎる質問をせざるを得ない。

 確かに楽譜には線が引かれていたが、それは五本ではなく三本だった。しかも線の上で舞い踊っている、点とか丸とか四角とか三角とかギザギザとか、音符みたいな顔をしたさまざまな『図形』が、それもモノクロではなくカラフルに描かれている。

 これはいったい何のラクガキなんだ──とさえ。


「ど、どうやって演奏するんですか?」

 れ、れもんの『レ』。

 そうだ! この楽譜には『ドレミ』が無い! みんなの『ミ』はどこだ!

 吹雪がそんな風に目を白黒させていても菜穂子はまったく悪びれない。

「とりあえず、それ見て吹きたいと思った音を吹いてみれば良いんじゃない」

「はいぃっ?」

「音符が書いてないってことは『音』が指定されてないってことなんだからさ」

 作曲家に職務放棄された──と途方に暮れる。ついさっきは吹雪から絶望的なまでのエーを救い出してくれたはずの天使が、今度は演奏する音すら示さない悪魔と化した。

 ぎぎぎとロボットみたいなぎこちなさで首を変な角度に動かし、

「えっ、と……即興、ってことですか?」

「完全な即興演奏とは違うよ」お伺いを立てても菜穂子は知らんぷりをしている。

「楽譜はちゃんとここにあるんだから。これ見て自分なりにいろいろ、、、、解釈して」

 ──いろいろ、ってなんだ? 楽譜が色々カラフルなだけに、ってか?

 吹雪は顔を引きつらせたまま首の角度をまっすぐに戻した。さすがにお手上げ状態なのだと悟ったか、菜穂子はわざとらしくため息をこぼす。

「……これだから西洋音楽クラシックしかろくに教えない義務教育は……」

「はいぃっ?」

「『図形楽譜』を知らないの?」

 菜穂子の説教くさい口調も、作曲家の仕事を放り出された側の身としては不本意だ。

「五線紙も音符も、あくまでヨーロッパの音楽家たちが開発した記号ってだけなんだよ。いつ誰に演奏させても同じ音を出してもらえるように」

「そ、それが楽譜でしょう?」吹雪は凍えたような声を出し、

「でなきゃ、同じ楽譜見ても同じ曲にならないじゃないですか──」

 反論するなり頭を小突かれてしまった。殴りつけるというほどの勢いで叩かれはしなかったものの、どちらかといえば、今の吹雪が傷めているのは体よりも心だ。

「お前は何を聞いてたの? ミヨーの話はもう終わったんだよ。クラシックの話なんかもうしてないんだよ。同じ楽譜で同じ演奏をされても意味ないから、こっちも別の楽譜を持ってきたんだろうが」

「ええ……」

「言ったでしょ? 私たちはいつだって新しい音を求めてる。五線紙で書き表せて、音符という記号で済ませられる程度の音はもう古いんだよ」

 怒鳴られてもいまだ理不尽さを拭いきれていない吹雪の表情に、菜穂子は五線紙ではなく、ルーズリーフの罫線けいせんの紙を一枚取り出してくる。鉛筆で太く十字じゅうじの線を引き、

「音の連なりや重なりを音楽と呼ぶなら、音そのものを構成するために必要な要素がある」

 四つに区分した枠の中へ単語を書き込んだ。

「基本は音の『高さ』『大きさ』『強さ』の三要素。そこにサックスとかピアノとか、楽器そのものが持っている『色』も加わって四要素」

「はあ……」簡易的な図表を見せられた吹雪は生返事をしながら、

「高さ、はまだ分かりますけど、大きさと強さって……」

「大きさはフォルテピアノかって話。強さはサックスで言うなら発音の仕方だよ。アクセントとかスタッカートとか、テヌートとかさ」

「なら最初からフォルテとかアクセントとか書けば良いじゃないですか……書いてあれば……」


 ──書いてあれば、その通りに吹くのに。


 再び反論しかけた口を、今度は自主的に片手で覆う。違う、そうじゃない。菜穂子は自分がイメージした通りの音を聴かせて欲しければ、初めから五線紙で書くはずなのだ。

 菜穂子が求めているのは、菜穂子自身がイメージしていない、思いもよらない新しい音。

「『ドレミ』の枠組みに囚われないで。音楽は、そんな狭い世界でやるものじゃない」

 目を見れば分かる。菜穂子は決してふざけてなどいない。年下相手に意地悪しているつもりさえない。どこまでも真剣で、純粋だ。

 背もたれがないピアノ椅子に腰掛け、ばあっと大きく両手を広げて見せる菜穂子が全身で訴えかけてくる。渇望していたのだ。目前に広がっているかもしれない、吹雪という未知のプレイヤーの可能性を。無限大の可能性が繰り出すかもしれない、菜穂子もまだ知らぬ新しい音を。


 ──佐倉さくら吹雪にしか奏でられない音楽を魅せろ、と。



(くっそ〜、やってやるよ……!)

 歯噛みしながらも、やけくそ気味に楽譜を受け取る。楽譜が自分の手元を離れた瞬間、唇をへの字にしたままな菜穂子の目だけが笑ったような気がした。気のせいだろうか。


 向菜穂子 作曲

『今は(Now Is)』


 ついカラフルな楽譜に目を奪われていたが、ようやく紙の上部に記された殴り書きの曲名を発見する。オーキャンといい今回といい、菜穂子のネーミングはセンスが良い悪いというよりかは何だか素っ気がなさ過ぎる。普段の立ち振る舞いが、まんま曲名に表れているかのようだ。

(いや……きっと、この曲にも何かしらコンセプトがあるはずなんだ)

 吹雪は楽譜と睨めっこし、頭をフル回転させた。しかし見れども考えども、三本線から数多の図形が押し寄せてきて、脳のキャパシティを軽々と埋め尽くしてしまう。

 ちらりと菜穂子の様子を盗み見ても、相変わらずピアノ椅子の上で両足をぱたつかせては窓の殺風景な外を眺めているだけ。これ以上のヒントは与えてもらえなさそうだ。

(なんでだ〜なんで三本なんだ〜素直に五本にしとけば良いじゃん先輩の捻くれ者〜……!)

 結局は一番上の線に乗っかっている真っ黄色のお月様は、高い音で吹けば良いんじゃなかろうか。下の線と真ん中の線を行き来しているギザギザは、中くらいの音と低い音で迷子にでもなっておけば良いのだろうか。

(ええい、ままよっ!)

 ついに吹雪はマウスピースを咥えた。楽器に息を勢いよく吹き込んだが、自分でもどんなフレーズを演奏したんだかまったく覚えていない。

 同じように何度も、目に付いた図形──自称音符、、、、を片っ端から音にしてみた。だが菜穂子の反応はあからさまに渋い。

(お……おいおいおいおい。ポテチ開封のおっぱじめてる場合じゃなかろうて!)

 どこにあったかスナック菓子。

 駄目だ。全然興味を持たれていない。ポテトチップスひとかけらぶんにも及ばないらしい。

 やはり遊ばれているのか? 音楽でも人付き合いでも百戦錬磨な女子大生にかかれば、男子高校生の身や心など容易く弄ばれてしまうというのか。


 ああ──。

 思いびとに「嫌い」と言われるよりも、無関心でいられるほうがずっとシンドイってのは、こういう感情だったのか。

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