『私は見ている(I'm Seeing)』

「ま、本当はエーエフも完全に同じ音色おんしょくで出せるよう訓練するべきだけどね」

 椅子の上で体育座りをし、ギッシギッシと背もたれを揺らす菜穂子なおこ。今まで散々頭を悩ませてきた僕の苦労はなんだったんだ、と吹雪ふぶきは長い、長い息をいた。

 もちろん当時の先輩だって、吹雪に向いている楽譜を彼女なりに探してくれたはずだ。だが、菜穂子が書き下ろしたこのワンフレーズだけで、先輩の僕の演奏に対する理解力を一瞬で上回ってしまった。いやあるいは、先輩も内心では理解していたかもしれないが、きっと手持ちのレパートリーでは菜穂子ほど身も蓋もない打開策を講じることができなかったのだ。


 おみそれした──これが作曲家。これがむかい菜穂子!


「禁じ手っていうか、反則感ありますね……練習サボって悪いことしたみたいで」

「どこが? リストもパガニーニも、あいつら自分の演奏技術ひけらかすために自前で曲をこさえたんじゃん。そこらに転がってる楽譜じゃ、自分も客も満足させられないからさ」

 そうか、とピアノを習っていた頃を思い出して納得する。音符が細かすぎる楽譜、そもそも指が届かなくて弾けないんじゃないかって唸りたくなる楽譜が世の中にはたくさんあるけれど、その難しさにも往々おうおうにして理由があったのだ。超絶技巧そのものが、リストやパガニーニにとっての独自性、音楽のアイデンティティに繋がっている。

 五線紙に一度触れたことで筆が乗ったのか、菜穂子は机へ向き直し、またもゴリゴリと鉛筆の音を鳴らし始めた。



「……私たちの居る世界では、常に新しい音を求めてる」


 吹雪が慌てて顔を覗きに行けば、菜穂子は鬼のような形相ぎょうそうをしていた。しかし誰へ語り聞かせているのか、薄い唇から紡がれる声だけはやけに穏やかだ。

「大学にもプロにも上手い演奏家はいっぱい居るし、みんな自分にできる今の演奏でさっさとケリ付けちゃうのかもしれないけど、本当はまだまだ全然駄目。そんな自己満足じゃ、私たちの曲を演奏するにはちっとも足りてない」

「……芸術家はナンバーワンよりオンリーワンっすか」

「両方。どっちも欲しいね」

 あまりの貪欲さに度肝を抜かれる。

 睦ヶ峰むつがみね芸大に合格できるかどうか、なんて次元の話は初めからしていなかった。何もかもが彼女にとっては前提だ。音大進学も、大学卒業後の進路もすべてが。

「最高の技術、無限の表現、演奏家が元から備えた生の音……ま、ぶっちゃけ素質? それを土台に広がっていく、経験や練習の積み重ね、センスから引き出された新しい音の追及。何かひとつでも欲しい要素が欠けてる奴に、自分の曲を演奏されても納得できない。どんなに新しい楽譜を書いたって、私は私の音楽を最後まで完成させられない」


 ゆえに菜穂子はいつも見ている──『私はI'm見ているSeeing』。

 あの曲はやはりメッセージだったのだ。自分が書いた楽譜を、唯一至上の音楽として完成させられるような演奏家をずっと探している。


「逆に、欲しい要素が全部揃ってる演奏家が居れば、そこにありとあらゆる新しくて優れた楽譜が、作曲家が、そいつの元へ無尽蔵に集まってくる」

 吹雪は唾をごくりと飲み込んだ。

 今まで演奏してきた曲は、どれも自分のために書かれたものでは無かった──ごく当たり前の話だが。市場で出回っている不特定多数がための商品か、はたまた大昔に誰かが、特定の演奏家がために書いた作品を、現代人がこぞって使い回しているだけに過ぎない。

 ソロコンで人気があった曲は、誰かにとってのナンバーワンだった曲だ。吹雪にとってのナンバーワンじゃない。

 しかし菜穂子や、今を生きる作曲家たちは違う。今しがた目前にいる演奏家のためだけに、そいつが世界中で誰よりも輝けるステージを演出するために、新しい音楽を生み出すことができてしまう連中だ。

 彼らが書いているのは、今を生きる演奏家──吹雪にとってのオンリーワンになり得る曲なのだ。


「それが『現代音楽』──今の私たちが『クラシック』と呼んでいる音楽の原点」


 菜穂子はたった今、吹雪が潜在的に最も求めていたのであろう答えを出した。

 自分のサクソフォンが誰よりも一番だと認めてもらう方法を。たったの一秒で人々を魅了できる──恋にオトす音をどうやって捻出ねんしゅつするか。

「教会に所属することでオルガン音楽を世間に広めていったバッハみたいに、逆に所属から外れることで貧乏でもやりたい音楽を貫けるようになったモーツァルトみたいに、まだ八八はちじゅうはち鍵盤のピアノが普及してなかった頃に自分のピアノソナタで楽器ごと流行らせたベートーヴェンみたいに、私たちの作った音楽が、奴らと並んで教科書やら音楽史の中に刻まれるのはこれからなんだよ」

 いち個人の夢や将来の展望と呼ぶには、あまりに壮大で気が遠くなるような話。

 だが少なくとも、彼女の話を聞いた吹雪がひとつの大きな決断を下すには、そう多くの時間を要さなかった。



   ♫



「ぼ……僕にも書いてくれますか?」


 我ながら随分と生意気な物言いだと内心では笑った。それでも吹雪は躊躇わなかったし、譲れなかった。菜穂子が決して、自分の音楽に妥協を許さなかったように。

「次のソロコンにも出場します。もう一度全国大会に出て、今度こそ金賞、いや高校生で一番を取ります。それで……いつかは日本でも……世界でも一番のサックス吹きに……だから、お願いします先輩。僕が一番になれる曲を書いてください‼︎」

「ふーん」

 菜穂子は鉛筆を走らせる手を緩めないまま、

「どうだかね。お前が私の欲しい音を出せるかによる」

「出してみせます!」

 吹雪を試すような物言いにすぐさま言い切ってみせた。本当はそんな自信、露ほども湧いていなかったが、だからってここで怯んだら負けだ。

 菜穂子はようやく手を止める。よくよく楽譜を見たら、書いていたのはサクソフォンの曲では無い。おっと……弦楽四重奏? 吹奏楽すら関係ないじゃないか!

「じゃ、今出してって」

 椅子から立ち上がるなり、菜穂子は本棚から一発で別の楽譜を引き出してくる。こんなに散らかっているのによく目的のブツを見つけられるなと感心しながら、吹雪は渡された茶封筒をしげしげと眺めた。

「それ、前にプロから委嘱いしょくされたやつ」

「イショク?」

「お前と一緒。自分が吹くための曲を寄越せって言われたから書いたんだよ」

 誰に頼まれたんだか知らないが、自分だって今は学生身分だろうになんて言い草だ──と、ちょっとだけ呆れた。さては菜穂子のほうこそ、身の丈以上に絶対的な自信を抱いているのではなかろうか。

(先輩って今、何年生なんだろ……)

 吹雪はおそるおそる封筒を開き、自信満々に出された楽譜を拝んでみる。それを一目見た、最初の感想はこうだ。


(……………………え? 音符……どこ?)

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