Eの音

「ん」

 あごで演奏を促され、吹雪ふぶきは固い表情のままマウスピースを咥え込む。全国大会のステージに上がった時よりも緊張していたかもしれない。

 伴奏も無く三分弱を吹き切ると、菜穂子なおこは十数秒ほど書き込みだらけで真っ黒な楽譜を片手に黙っていた。どうでしたか、と感想をたずねる勇気が出ないうちに、

「ここのフレーズ、もっかい吹いて」

 菜穂子が自らアンコールを持ちかけた。その指先を見てギクリとする。おそるおそるもう一度演奏してみると、完全に予想通りのコメントが飛び出したのだ。

「出だしのエー、なんでもっとストレートに発音しないの? 他はそんな風に出してないじゃん」

 エーは吹雪が──というか、全サクソフォン吹きが最も苦手とする音だ。楽器の特性というやつらしく、お隣さんのエフや他の音とまったく同じように発音すると、ピッチがやたら低くて音色おんしょくも暗くなってしまう。

 そんなエーから始まる旋律だから、他と同じような形をしたフレーズでも、ここだけは発音の瞬間、トランポリンの上で跳ねた時みたいなうねりをわざと作っているのだ。パァンと直線上に発音できないわけでは無いが、悪い音が出ると分かっていて発音するのが躊躇われるし、何より自分自身が気乗りしない。

 よくぞ一回通しただけで急所を聴き当てたな、と吹雪がおののく猶予は与えてもらえなかった。

「ここ、もっと強弱の幅広げて吹いてみて。……こっちのロングトーンは無音から始めてみて、間延びしても良いから」

 次から次へとリクエストに応えなければならなくなり、吹雪は沸騰した頭で楽器を鳴らし続けた。菜穂子の指示は顧問や先輩がするような「ここはこうした方が良い」的なアドバイスの類では断じて無く、ただ単にありとあらゆる箇所を、いろんな表現でいろんな音色で試しに吹かせてみたいだけのように思えた。



 演奏家の──もとい、男の度量を試されたような気がしてならない。

 指示通りに吹けない箇所も山ほどあって、ドギツイ彼女のことだ、そろそろ「下手くそ」とか罵られるんじゃないかとビビり出した頃。


「……なんでこの曲にしたの?」


 根本的な部分を聞かれ、吹雪は迷いながらも結局は正直に答えた。

「みんな吹いてるから……あと、先輩もこの曲が一番僕に合ってるって」

「言うほど合ってないよ」菜穂子はズバッと。

「お前がこれ吹いても、全国一番は取れないんじゃない?」

 またもぎょっとした。確かに、あのソロコンは最終的には『銀賞』だった。周囲からは一年生で全国行けただけでもすごいなどとチヤホヤされたが、初参加だろうと下級生だろうと、大会で最高評価の『金賞』が取れなければ悔しいものは悔しい。

「なんでこの演奏で一番取れなかったんですかね?」

 やや食い気味に聞き返してしまうと、菜穂子は間髪入れずに、

「だから曲だって」

「『スカラムーシュ』で全国行く人はいっぱい居ますよ!」

「そのいっぱいの一人になってどうすんの? そこそこ上手ければ全国行けるような曲だから選んだってことでしょ? 他の全員もお前みたいにそこそこなんだから、みんなして同じ曲吹いたら横並びじゃん。そっからどうやって一番になるの?」

 鈍器で頭を殴られたような衝撃。反論する言葉も見つからず口を開閉させている内に、菜穂子は楽譜を譜面台に戻した。


「確かにこの曲は有名で、そこらのコンサートでやれば客ウケもするからみんな吹いてる。どっちみち大学入ったら当分は定番曲ばっか練習して、仕事で使えるレパートリー増やす作業をしていくことになるだろうからさ。この曲が吹けて損することは別に無いよ──けど、それは音大入ってプロになる過程としては序の序の、序」

 菜穂子は机の上に五線紙を置き、ごりごりと鉛筆を走らせた。

「上手い奴はいくらでも居る。技術力と表現力はどっちも大事で、けど両方磨いたってコンクールで満点取ったって、それで一番のプレイヤーになれるわけじゃない──それは全員持ってる力だから」

 五線の上で音符が踊っている。

「結局は曲なんだよ。みんなと同じ曲やって一番になれるわけ無い。好き嫌いも向き不向きも映える映えないも、プレイヤーごとに一番が取れる曲は全然違うんだ。だからお前も、お前にしか出来ない演奏──他の誰かじゃなく、佐倉吹雪が吹くから一番、、、、、、、、、、、っていうレパートリーを探さなきゃいけなかった」

「じゃあ、僕が一番取れる曲ってどれなんですか。何吹いたら、一番サックスが上手いってみんなから思われますか!」

今書いてる、、、、、

 むきになって問いただすと、菜穂子は言い捨てるなり机に向かったまま黙り込んでしまった。吹雪は言葉の意味をすぐには理解できない。何度も脳内で反復してから、今まさに目の前で、自分が吹くための楽譜をこしらえているのだと気がついた。

 その場に突っ立ったまま二、三分ほど待たされただろうか。菜穂子は回転椅子でぐるりと振り返ってきて、

「ん」

 紙きれ一枚を差し出す。

 受け取れば五線紙の一番上の段に、スラー続きの短い旋律がひとつ書かれていただけだった。それでも見るからに『スカラムーシュ』と同じくらい指回りが激しくて、初見で演奏するのは難しそうなフレーズだ。

「……僕、いきなり楽譜見せられても吹けないんですが……」

「この程度のソルフェージュでを上げてたら睦ヶ峰むつがみね受かんないよ」

 初見演奏の苦手を正直に明かしても菜穂子は容赦ない。しぶしぶ楽譜に目を通し、何度かマウスピースを咥えないまま、運指だけでからぶりの演奏を試みた。

(よし……)

 メロディが脳内でもなめらかに流れるくらい覚えたあたりで、ようやく吹雪は音を出す決心を付けた。マウスピースを咥え、楽器に息をフォルテで吹き込む。



(────へ?)

 エーから始まる旋律だった。

 楽譜の難解さに気を取られすぎて、発音にまで注意が向かずうっかりストレートに音を出してしまう。が、エーの音はやたら綺麗で明るかった。『スカラムーシュ』や他の曲を吹いている間は、まぐれだって一度たりとも鳴らなかった、百点満点の色。

 これは満点、いや優勝だ、とその音に自惚れる。

 魔法の秘密はすぐに判明した。エーを鳴らした勢いのままに、一瞬だけオクターブ上のエフへ寄り道するのだ。少し上まで登ってから、ジェットコースターみたいに思い切り早いパッセージで駆け降りていくフレーズが超絶格好良い。

 ステージで最初にこの旋律を演奏すれば、ソロコン金賞、いや一等賞間違いなしだと直感する。優勝だ。佐倉吹雪に敗北の二文字は無い。

(違う。優勝したのは僕の演奏じゃない)

 吹雪は神か天使を目撃したような瞳を菜穂子に向けた。

 優勝したのは菜穂子の曲だ。ソロコンの演奏制限時間四分をわざわざ消費する必要すらなく、たった四秒、たったのワンフレーズでミヨーよりもナオコ、向菜穂子の曲しか勝たん──と、吹雪を確信にまで至らしめてしまったのだ。

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