菜穂子の部屋



   ♫



 待ちに待った土曜日。


 吹雪ふぶきは部活動が終わった途端に音楽室を抜け出した。サクソフォンを肩にぶら下げていてもまったく重みを感じない。そのくらい今の足取りは軽かった。

 高校最寄りのJRジェイアール安城あんじょう駅から岡崎おかざき駅までは電車一本ですぐに着く。駅を降り地図アプリが示した通りに歩いていけば、予告されていた徒歩十五分よりも少し早めに、一軒家の玄関まで来てしまった。ちゃんと石版せきばんに『むかい』の一文字が彫られている。

(あ、昼飯食べるの忘れてた)

 母親から持たされていた弁当箱の存在を思い出し、どうしようか少しだけ悩んだ。しかし空腹よりも菜穂子なおこに一刻も早く会いたい感情がまさってしまい、カバンの中身を確かめもしないままインターホンのスイッチを押す。

「はぁ〜い」

 まもなく扉の奥から返事が来て、パタパタとスリッパの音が聞こえる。その慌ただしい足音も、声もどう考えたって菜穂子本人ではない。

「どちら様ですか?」

 扉から顔を出したのは壮年そうねんの女性だった。母親だろうか。

城安じょうあんひがし高校二年の佐倉さくらです。その、菜穂子さんと待ち合わせしていて」

「菜穂子?」

 学ランを着ているおかげか、あからさまに不審がられることは無かったが、玄関から続く廊下のすぐそばにあった階段へ、

「菜穂子〜! 高校生の男の子〜!」

 大声で娘の名前を呼ぶ。しばらく経ってから、二階のどこかで扉の開く音がする。

「誰〜?」

 吹雪は危うくその場でずっこけそうになった。いくらなんでも「誰〜?」は無いだろう、自分のほうから安城市外まで呼びつけておいて!

 ギシギシと悠長な足取りで階段を降りてきたのは、着飾ることを知らない無地のTシャツにジーパン姿のボサボサ頭。

「……ああ、お前か」

「あんた、高校生なんか家に連れてきてどうするつもりなの?」

「来るの早過ぎない?」

 親子の会話が噛み合っていない。どうやら菜穂子は母親に吹雪の来訪を知らせていなかったようだ。それに、夜を迎える前までに来いとは言われていたが、何時頃から来て良いとは具体的に言われていなかったことも後から思い起こす。

「こっち、昼ごはんもまだなんだけど」

「す、すみません。あの、じゃあ一緒に食べて良いですか!」

「は? 人んちに上がり込んでいきなりめしタカる気?」

「弁当自分で持ってます! 僕もまだ食べてなくて」

「……学校で食べてから来れば良いのに」

 菜穂子は怪訝けげんそうに呟いたが、彼女の母親はとても寛大かんだいな性分をしていたようで、来客用のスリッパを用意しニコニコとリビングまで案内してくれる。リビングでは時代劇がテレビで垂れ流されており、角テーブルにはすでに向家の昼食がずらっと並んでいた。

 あれよあれよという間に椅子へ座らされた吹雪は、そのまま菜穂子と向かい合い、母親も同席し食卓を囲むという、少しだけ異常な体験をすることとなった。


(僕、たった三日で菜穂子先輩と親公認の間柄になってしまったのか……)

 菜穂子の母親からカボチャの煮付けを勧められながら、吹雪は今の状況を冷静に整理する。相変わらず当の本人は高校生に食事姿をじぃと見つめられてもさほど気に留めていない様子で、もちゃもちゃと白米を口へ運んでいた。

 このリビングで吹雪だけが若干の気まずさを噛み締めている中、母親のほうがあれこれと話題を振ってきてくれる。

「あなた、お名前はなんて言ったかしら」

「佐倉……吹雪です」

桜吹雪、、、? ま〜あ、すごく綺麗なお名前」

 吹雪の名前を呼んだ時のイントネーションが娘とまったく一緒だ。

「城安東なんて良いとこ通ってるわね〜」

「え? いや、あさ日野ひののほうがずっと凄いですよ……」

「どうかしらねえ。結局どこの高校を出ていたって、大学で落ちぶれたら意味ないけれどねえ」

「落ちぶれてない」

 菜穂子がバサリと否定すると、次に母親から飛び出た言葉に、吹雪は思わずえっと声を上げてしまう。

「でも、一週間も大学行ってないじゃない。そんなに授業休んで大丈夫?」

 何か不穏な気配を感じ取ったのか、ぎりりと菜穂子は吹雪を睨みつけてくる。絶対に余計なことを口走るな、と鋭い眼光が主張していた。弁当箱に入っていた玉子焼きが喉を完全に通りきっていないまま、吹雪は唇を堅く引き結ぶ。

(もしかして先輩、謹慎のことお母さんに話してないのか……?)

 よく考えてみると一ヶ月も授業に出なかったら、その間の出席日数とか単位とか、成績はどうなってしまうのだろう。その辺は高校よりもずっと厳しいと、大学生の兄や姉を持つ友達から噂を聞いたことがあるけれど。──最悪、留年しちゃったり。

(や、むしろ一発で退学にならなかっただけマシなほうか……?)

 菜穂子の母親に対する振る舞いには少し意外性を感じた。外では傍若無人な彼女だが、大学で起こした事件を親には知られたくない、学業で変な心配はかけさせたくないと配慮できる程度には、最低限の良心を持っていることにややほっとしたのだ。



 昼食を済ませると、菜穂子の後を付いていくように二階へ上がる。

 女子の部屋に入るなんていつぶりだ、と思春期を丸出しにしたままドアの向こう側へ一歩踏み出す。

(……きたな!)

 ほとんど男子の部屋と変わらない散らかり具合だった。

 本棚がちゃんとあるにも関わらず床にはいくつも本の山ができていて、楽譜や書類があちらこちらでじか置きされている。勉強机も当然のように何かしらで埋まっていて、壁際に所々がほこりをかぶったアップライトピアノを置く代わりに、なぜか子ども部屋にあって然るべきベッドは置いていない。布団を敷けるようなスペースはとても無さそうだが。

 よくも客人を、それも年下とはいえ男をこの部屋へいきなり招こうなどと思ったな、と吹雪が白い目で部屋を見渡していると、

「譜面台使う?」

「え、と……今、ですか?」

「今使わなくていつ使うんだよ」

 意味が分からないと言いたげな様子で、

「サックス吹くんじゃなかったの?」

「……あっ。ああ、はい! 吹きます!」

 確認を受けると吹雪はカッと頬を赤く染めた。そうか本当に演奏を聴いてくれるつもりだったのか、と今更ながらに緊張感をたかぶらせる。


 吹雪がサクソフォンを組み立てている間、菜穂子は回転椅子に腰掛けぷらんぷらんと両足を宙へ浮かせていた。やはり自分から雑談を持ちかけようとはしないタチのようで、沈黙の時間に耐えかねた吹雪が仕方なく話題を探す。

「ここから大学通ってるんですか?」

「通ってない。大学の寮住んでるから」

「……もしかして、謹慎になると寮にも入れなくなるんですか?」

「別に。なんとなく帰ってないだけ」

「……そうっすか」

 こりゃ駄目だ。会話がちっとも弾まない。お見合いでこんなトークかましたら放送事故レベル、合コンなら出禁だ。

 吹雪は諦めて楽器の準備に専念すると決めた。カバンから昨年度のソロコンで吹いた楽譜を出すなり、ぬっと菜穂子の顔が近付いてきたので、今度は物理的な女子との距離感でドキドキさせられる。

「ふーん。それなんだ」

「し、知ってます?」

「高校生がこぞって課題曲みたいなノリで吹くやつじゃん。ソロコンなんか何吹いても自由なのに」

 夏の大編成のコンクールでは課題曲というものが存在するが、冬のアンサンブルやソロのコンテストは時間制限があるだけで曲目に縛りは無い。確かに、と菜穂子がした発言の妥当性に頷く。


 ミヨー 作曲

『スカラムーシュより、第三楽章〈ブラジルの女〉』


 そもそも、この曲は自分で選んでいない。ソロコンに出るならこの曲が良いよ、と勧めてくれたのは当時のテナーサクソフォンの二年生だ。

 速いパッセージが多くて息継ぎが大変で、マスターするまでに練習はかなり難航したけれど、演奏時間はかなり短くてテンポや拍子が大きく変わることも無く、構成がシンプルだから音楽初心者の吹雪でも理解しやすい曲だ。おまけにサクソフォンの明るい高音を伸び伸びと出して歌えるから、吹いても聴いても心地が良い。

 ……今になって思えば、ソロコンで全国大会まで行けたのはあの先輩のおかげだ。彼女自身はべらぼうにサクソフォンが上手いわけじゃなかったが、ピアノを昔から習っていて難しい伴奏も快く引き受けてくれたし、何よりも選曲といい後輩への指導といい、吹雪が得意としている演奏を誰よりもよく分かっていた。

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