変人と奇人



   ♫



 吹雪ふぶきが楽器庫のドアを開けると、菜穂子なおこはずかずかと遠慮なしに本棚へ進んでいく。背負っていた黒のリュックサックを床に降ろし、本棚に詰め込まれた楽譜を次々と引き出してはしまってを繰り返した。

「……あ、あの」

「何? 邪魔なんだけど」

 背中を見せたまま冷たい言葉を投げつけられ、早くも心が折れそうだ。でも怯むな佐倉吹雪。一週間思い焦がれてきた、やべー先輩の御前ごぜんだぞ!

「用が済んだら勝手に帰るから。ずっと見てなくて良いけど?」

「え、っと、何借りに来たのかなって……」

「あー!」

 急に声を張るので吹雪はびくりと肩を震わせる。そこまで邪険にされてしまったのかと心臓を痛めかけたが、

「やっぱ城安じょうあんひがしにあるんじゃん」

 菜穂子の声色は明るかった。背後からそろりと忍び足で近寄ってみれば、手に取っていたのは木管五重奏の楽譜だ。木管五重奏という編成はサクソフォンとはあまり縁が無いから、その曲は冬のアンサンブルコンテストで候補に上がることもなく、どのくらい有名な曲かも吹雪はいまいち把握していない。

「うちの母校、輸入楽譜全然揃ってないんだよね。弱小過ぎて日本人のチョロい曲ばっか吹いてるからだわ」

「先輩も高校は吹部すいぶですか? 高校どこっすか!」

 すかさず尋ねると菜穂子はしれっと答えた。

あさ日野ひの

 ぎょっとした。名古屋市内、いや県内随一の超弩級どきゅう名門校ではないか。すげえ、と思わず感嘆を口に出してしまう。

(ああ、でも、先輩も愛知の人か……!)

 憧れの先輩と同郷である事実に一人で感極まっていると、

「作曲科は音高おんこうの出はあんま多くないから。その代わり頭が良いか、勉強好きな奴ばっかりで、年によってはそこらの国公立より共テ、、の合格平均点が高かったりする」

 幸運にも大学受験に絡む話題を彼女の方から持ってきてくれた。吹雪は間髪入れずに、彼女と会ったらまず主張したかったことを伝えた。


「僕……僕も、音大行きたいんです!」

「あっそ」菜穂子の反応はひどくあっさりしている。

睦ヶ峰むつがみね?」

「は、はいっ!」

 うっかり肯定してしまった。学校でも家でも、第一志望は東京芸大だと長らく豪語してきたはずなのに。

「僕、吹雪って言います。佐倉さくら吹雪です!」

 ようやく思い出したように自己紹介すると、

桜吹雪、、、? ふーん」

 名前を反復した菜穂子のイントネーションが若干自分や周りに呼ばれる時とは違っていたが、今は別に指摘しなくて良いと判断する。

「管楽器科志望ってこと? 楽器は?」

「サックスです! アルトと、時々ソプラノも吹いてて……」

「じゃ、吹部やってるうちに楽器借りてテナーとバリトンも吹き慣らしておきな」

 終始感情の起伏が読めない声のトーンで、

「大学のバンドでも全員、ソプラニーノからバスまで吹かされるらしいよ」

「そぷら、に……? なんですか?」

「そのくらい高校に現物げんぶつ無くても知っとけ。自分で調べて。実際、どれも吹けて当たり前にしなきゃ卒業してから仕事にならないだろうし」

 厳しい口調で、しかし想像以上に具体的なアドバイスが飛んでくる。さすがは現役音大生。ひとたび口を開けば、ずっと知りたかった情報が湯水ゆみずのごとく湧いてくる。

 こちらを振り向いてくる気配も無く、床に座り込み楽譜をペラペラめくる菜穂子。いくら助言を講じたところで、彼女が見知らぬ高校生に特別関心を持っているわけでは無いことなどすでに明白──そう頭で理解はしていても、菜穂子への憧れは吹雪の中でさらに強まっていく。



「……あの曲、最後まで聴きたかったです」


 菜穂子の楽譜をめくる手がビタリと止まった。

「『私は見ている』って、あれ、どういう意味ですか? 普段何を考えてたら、あんな曲が思い付くんですか?」

 楽器庫は冷房が付いておらず、扇風機をかけながらドアを開けておかないと、誰もが長居するのを躊躇うくらいに湿気がこもってしまう不便な部屋だった。しかし吹雪の発言で、部屋の空気が心なしか冷えていくように感じる。

 今のは失言だったろうか。もしかして今度こそ本気で怒らせてしまったのだろうかと、彼女の背中が微動だにしないことに身構えた。

「あっそ」霞むような声で菜穂子は言った。

私も、、最後まで弾きたかった」

「で……す、よね。本当、残念でしたよね」

 吹雪なりの精一杯のフォローと純粋な好奇心が、あのパフォーマンスへの追及をとどめることを許さない。

「えっと、その、どうなったんですか、あれから……ピアノは弁償ですか?」

「あんなの弦替えて調律し直すだけでしょ。入学した時点で、在校生が使った大学の備品は、全部大学の予算で修理する契約になってるから」

「え……そ、そういうもんですか。へえ……なるほど……」

 納得したようなしてないような相槌を打つ。おそらく保険や保証の類だろうが、その契約は自然老化や不慮の故障をした場合に限るのでは、などと高校生風情が言い返すのは、いささか野暮なんだろうか。

「まあ音大ですもんね。学生の芸術活動のためなら、ちょっとくらい楽器壊したって寛大な心で許すべきですよね……」

「別に許されてないよ」菜穂子の返事は早い。

「今、謹慎中。一ヶ月大学行けない」

 言葉にならないほど驚きの結末が待っていた。やはり無許可で楽器破壊はまずかったようだ。どうりで平日でも高校に来られたわけか。彼女の回答に今度ばかりはすとんと腑に落ちる。

「前もって弦切る許可取れば良かったのに」

「許可降りないよ。大学にとっては学生風情の芸術活動よりも、消耗品の寿命の方がずっと大事みたいだから」

「じゃあなんであんなことしたんですか?」

 吹雪は言葉尻が強くなってしまったことをすぐに気にして、口どもりつつ。

「……や、僕はすごく良かったと思うんですけど……」

「さあ?」

 なんて気のない返事なんだ、と拍子抜けする。やっぱりオーキャンでの奇行は、秋音あきねの言う通りただのテロリズムだったんだろうか。

 計画的犯行ではあったのかもしれない。だが少なくとも、思いつきでペンチを持ち出し音楽と称して悪戯をはたらいたわけでは無いという吹雪の確信は微塵も揺らがなかった。あの時の大胆なようでいて実はいたく繊細なパフォーマンスが、彼女が小さな部屋で爆発させた芸術のすべてを鮮明に物語っていたのだから。


「帰る」

 簡潔に用済みを知らせた菜穂子が立ち上がり、何冊か楽譜をリュックサックへしまい込んでいるのを見て決意を固める。

「菜穂子先輩!」ドアの前に立ち塞がるみたいに両足を肩幅ほど広げ、

「僕のサックス、聴いてくれませんか?」

 どぎまぎしながら申し出た。

「率直な意見をうかがいたいです。先輩に僕の演奏がどんな風に聴こえているのか。今の実力で、睦ヶ峰に受かるかどうか……」

「なんで私?」

 帰宅のために振り返った菜穂子の返事はやはり素っ気ない。

「私、作曲科なんだけど。大学受かる実力かどうかは、自分の先生に判断してもらいなよ」

「先生って……顧問ですか? 水崎みずさき先生はそんなに楽器のこと詳しくないから」

「私も詳しくないよ。それに部活の先生じゃなくてサックスの先生だわ。誰かしらに個人レッスン見てもらってるんじゃないの?」

 要領を得ない菜穂子の話に、吹雪はきょとんとしたまま突っ立っている。その反応でなにかを察したのだろう、菜穂子は饒舌になり、赤子をいなすみたいに吹雪へ言い聞かせてくる。

「音大志望の高校生はだいたいプロか卒業生か非常勤講師か、受験対策やってるような人に師事しじするんだよ。サックスなんて特に演奏人口多いんだから、部活レベルじゃ滅多に受からないよ?」

「まじ……ですか」

 説得力の権化ごんげみたいな存在から音大受験事情を聞かされると、やっとというか今更というか、長らく余裕ぶっこいていた吹雪の焦りの感情がひと息で膨み、破裂した。

 早くレッスン見てもらえる先生を探さなきゃ、という冷静な思考が頭の中を巡りかけたが、

「や、でもっ!」

 先にもっと熱い衝動が口を突いて出てくる。

「今は先輩に僕の音楽を聴いてもらいたいんです! それか、先輩の音楽をもっと聴いてみたい……あの曲、もう一度聴きたいです‼︎」

 もっと喜んでくれるかと思った。下心というほどでも無かったが、本音の中にひとつまみのヨイショが含まれていたのを自覚する。──あるいは、お世辞でも野次馬でもない本心が紡いだ言葉であったからこそ、尚更タチが悪かったのかもしれない。

 菜穂子はいかにも面倒くさそうな表情を浮かべた。つい昨日、吹雪が菜穂子の名前を聞かされるまで水崎先生にやった顔だ。そのまま沈黙がしばらく続いた。



「……お前、土日は暇?」

「午後からでしたら! 午前は部活があるので……」

 本当は、週末の午後もあまり用事を入れない方が良い。来月に定期演奏会が控えていて、この時期はたいてい打ち合わせとか準備の予定が加わるのだ。内心では部員たちに詫びつつも、今はとにかく彼女の機嫌を損ねないことに全神経を尖らせる。

 再び短いようで長い沈黙を経て、ついに菜穂子から結論が出された。

「じゃ、土曜日私の家に来て」

「……家」

 思考が完全凍結する。そして次はめまぐるしく思考が脳内で交錯した。

 オッケーを通り越して、いきなりご実家へのお誘いだと? んな馬鹿な⁉︎ 初めて出来たカノジョとのデートで例えるなら、初手でカノジョのお部屋に招かれたのと同等の価値を孕んではいやしないか⁉︎

「イイエ?」

「いえっ、大丈夫です! 家、行きます!」

 聞き返されると吹雪はものすごい剣幕で首を縦に振り下ろした。菜穂子は特段表情を変えることもなく、リュックサックからスマホを取り出し操作を始める。

「ラインは?」

「あります!」

 吹雪は大慌てで音楽室から自分のスマホを持ってくる。そしてSNSエスエヌエスの連絡先までゲットしてしまう。

 友達登録を交わした瞬間に菜穂子から送られてきたのは、実家の住所を示した地図アプリ上の赤い点。岡崎市だ。

「うち、夜はあんま音出せないから来るなら早めにしてね。じゃ」

 脇をすり抜け、今度こそ廊下を出ていく菜穂子に吹雪は無言で深々と頭を下げる。床と腰が垂直になって数十秒、顔を上げるとそこにアーキしょくの姿は無い。

(やばい。うわ、うわっうわうわ、やっばいやばいやばいやばい! やばいって‼︎)

 とうとう脳まで語彙力を溶かし切った吹雪が、その場で小躍りしているのを部員たちがヒソヒソ声で噂しながら通り過ぎていく。あの中本でさえも二日以内に三回同じツッコミを入れる度量は持ち合わせていなかったようで、真顔のまま後輩と並び完全スルーを決め込んだ。


 ──かくして、サクソフォンの変人と作曲の奇人は出会い、二人で織りなす新たな青春のハーモニーがここに爆誕しようとしていた。

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