SECTION.2 変人と奇人の二重奏

ドギツイ先輩

佐倉さくらくん。……佐倉くん!」


 音楽室で何度も名前を呼ばれ、吹雪ふぶきははっとする。

 衝撃的なオープンキャンパスから早くも一週間が経過していた。あの発表会で起きた惨劇を目撃して以来、こうして自分の席でサクソフォンを抱いたまま心ここに在らずな時間が増えたような気がする。

 声を掛けてきたのは第一顧問の水崎みずさき先生だ。あと数年で還暦を迎え、部活動内外で生徒たちから人気がある、穏和で誰にでも親身なおじいさん教師。

「なんですか先生?」

 楽器を持ったまま立ち上がり水崎先生と目線を合わせる。

「昼に職員室へ電話があってね。睦ヶ峰むつがみね芸大の子が明日、楽器庫の本棚を見せてくれって言うんだ。部活終わりくらいに来るらしいから、ちょっと案内頼めないかな。現役の音大生と話す機会なんて滅多に無いだろう?」

 予想も付かなかった相談事に吹雪は眉をひそめる。前に水崎先生と個人的な進路相談会を開いた時は、城安じょうあんひがしから睦ヶ峰芸大に入学した生徒はゼロだという話を聞かされたはずなのに。

「やっぱりうちのOBオービーが居たんですか?」

「いや〜それがね……この学校の子じゃないんだよ。けど、その子OBに友達が居たとかで、何度もうちへ遊びに来てるんだって」

 いかにも又聞きっぽい水崎先生の口振りに、なんだそりゃ、とますます電話先の相手を胡散うさんくさがった。水崎先生がこの学校に転任してきたのは吹雪の入学と同じ年度だから、例え相手の主張が嘘でなかったとしても、その大学生を先生が知っているはずも無い。

(明日? 明日って木曜だぞ。普通に平日じゃん。大学の授業は無いのかな……)

 いくら憧れの大学に通っている先輩だろうと、練習する暇も惜しんで相手の用事に付き合うなんて面倒くさい。二年生に進級してからは、新入部員の基礎練のコーチを三年生たちに散々押し付けられてばかりなのに。


 どうにか案内係を断ってやりたいな、とていの良さげな言い訳を考えようとする。

(や。……待てよ)

 脳裏をザッと横切ってきたのは、先週出会った衝撃の音楽と女流作曲家。

 ダメもとでも質問してみない手は無いと、吹雪は結論を少しだけ先延ばしにする。

「その大学生って何科ですか? 管楽器? ……その、名前とか……」

「え? 名前? お名前はね……ええと」

 水崎先生はのそのそと、電話しながら書いたのであろう付箋を見ながら、カタカナ文字をそのまま読み上げる。

「ムカイ……ナホコ、、、? さん?」

「僕がやります」

 即答した。断る余地など無かった。あわよくば作曲科とか、本人と関わりを持っていそうな先輩であったら嬉しいな、くらいに考えていた自分が馬鹿らしい。

(こんな偶然が起きて良いのか? うち、普通科だぞ? 吹部すいぶだって、夏コン県予選進出が関の山な、たいした強豪校でもないのに……)

 吹雪が真っ先に思い浮かべたのは『運命』の二文字だった。次点では『奇跡』あたりか。なにせ、あれは運命の出会いとしか表現し難い夢のパフォーマンスだった。初めての恋に落ちた瞬間にもよく似た感覚。


 いや、むしろ初恋そのものだ。

 吹雪は誰かに恋をしたことが無い。あれは今までとはあきらかに一線を画した、ひとりの女性と出会った時の恋に落ちる一秒間だ。

 その向菜穂子が現れる──。吹雪がこんなに心を躍らせたのは初めてだった。水崎先生が自分から離れていくと、周囲の生徒の存在を忘れるほど舞い上がり、楽器をくるくると回すようにその場で何度も回転する。

 吹雪の踊る姿を見つけた同級生・中本なかもとが、白い目をしながら「止まれ吹雪。気持ち悪い」と近寄って来るなり尻を一蹴した。足を床と垂直に上げても、中本のスカートの中身は見えなかった。



 そして訪れる翌日の夕方。


 いつもの合奏練習が終わり、音楽室のドアが開放されると、廊下にポツンと突っ立っている私服の女性の姿があった。あの真っ黒なボサボサ頭……遠目で見ても間違いようがない。

 サクソフォンを椅子へ放り置き、吹雪はさっとドアまで駆けていく。

「こっここ、こここんばんは! ナホコさ……ナホコ先輩!」

 上昇していく頬の熱を感じつつ、咄嗟とっさにプログラムで見た漢字を思い出して名前を呼ぶ。菜穂子なおこは腕を組み壁に寄りかかったまま、真顔なのか不機嫌なのかよく分からない表情を吹雪に向けた。

「初めまして! オーキャンの……ええと、発表会! その、僕、見ました、、、、! ナホコ先輩の演奏、フォルテがただの強い音じゃなくって、なんかバネがあるっていうか、フォルテの中にもピアノがあったっていうか──」

「ホ」

 菜穂子の第一声にまばたきする。ただの吐息か、掛け声か、あるいはイロハニホヘトの『ホ』か。

「ホじゃなくてオだわ。菜穂子だわ。ナホコじゃなくて」

 低い声で唸られた吹雪はぞっと背筋を正す。どうやら名前を勘違っていたらしい。水崎先生も電話越しでは正確に発音を聞き取れなかっただろうし、何より稲穂の『』という漢字を見れば、きっと大抵の人は勘違う。

「そ、そうでしたか! すみません!」

「プログラムはちゃんと読まなかったの?」

 不可解な追及を受け、吹雪はもう一度まばたきした。言葉の意図が汲み取れないでいると、

「曲名にも出演者名にも全部、英語表記が載ってたでしょ。エヌ・エー・オー・ケー・オー。エイチ無いだろ」

「え? ……あっ! あ〜……」

 指摘されて初めて思い出す。曲名の方は確かに『I'm Seeing』と小さな文字で書いてあって、かなり印象に残っている。だが音楽に聴き惚れた相手とはいえ、人名のローマ字読みにまではいちいち注目していない。

「芸大のオーキャン来るなら英語表記もちゃんと見なよ。何のためにわざわざ書いてあると思ってんの? ヨーロッパでもアメリカでも、海外じゃどうせ日本語通じないんだからさ」


 ──あ、この先輩ドギツイ、、、、


 吹雪は直感した。菜穂子の顔といい声といい言い方といい、何から何まで初対面の、それも高校生相手に取るべき態度では無かった。

 かといって別に驚いてはいない。むしろ想像通りですらある。菜穂子はこちらの期待をまったく裏切らない。公衆の面前めんぜんであれほどバイオレンスなパフォーマンスをやってのける女が、音楽してない時だけは他人に優しいなんて、そんな生ぬるい女であるはずが無いんだ。

「倉庫どこ? アンサンブルの楽譜借りたいんだけど」

「こ、こちらです」

 菜穂子に急かされ、吹雪はそそくさと楽器庫へ連れていく。

(今、しれっと楽譜借りるって言ったな……)

 これほど図太そうな神経した彼女がただ本棚を見に来るはずも無い、と密かに眉を上げる。

 菜穂子は今日もオープンキャンパスで羽織っていたアーキしょくのブルゾンを着ていた。やはりこれは演奏会用ではなく彼女の普段着なのだ。

 変人も限界値まで振り切れるとここまで面白くなれるのか──と、自分はいたって真っ当な人間だと思い込んでいる男子高校生が、歩きながらニマニマと一人で笑っていた。その現場を通りすがった中本はポニーテールを揺らし、もう一度気色きしょく悪そうに顔を歪めさせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る