新作発表会



   ♫



 来たるゴールデンウィーク最終日。


「おはよ」

 中学卒業ぶりに会った篠原しのはら秋音あきねは、ずっと長く伸ばしていた髪を切ったことで、少しだけ大人っぽくなっていた。オーキャンは高校生だとすぐに見分けてもらえるよう制服で行った方が良いという吹雪ふぶきへの助言通り、自分も風ヶ丘かぜがおか女学園の黒ブレザーを羽織っている。

 睦ヶ峰むつがみね芸大の最寄り駅で待ち合わせしていたが、吹雪が姿を見つけて声を掛けるまでなぜか秋音は落ち着かない様子で、あたりをきょろきょろと見渡していた。あいさつも程々に駆け寄るなり、

「あのさ。名高めいこうの制服見かけたらすぐ教えて」

 小声で妙な注文をしてくるから吹雪はいぶかしむ。

「……なんで?」

「あいつ、前に睦ヶ峰志望って言ってた。オーキャン来てるかも……絶対鉢合わせたくない。もし居たら速攻隠れる」

 ああ元カレの話か、と話の本筋にもれなく思い至る。

 睦ヶ峰は校則が厳しいからショートヘアに変えたのだと秋音は主張していたが、本当は失恋した女子がよくやりがちと噂の儀式的なアレだろう、と吹雪は話を聞いたそばから勝手に解釈していたのだ。

「え、ちょ、速いって!」

 吹雪はそわそわしたままの秋音に構わず、大学の建物が見えるまでずんずんと丘を登っていく。緩やかな傾斜が長々と続いていて、時折その丘を自転車で勢いよく駆けていく人を見送るたびに(入学したらこの丘を毎日行き来するのか……)と早々にげんなりする。

 十分じっぷんほど掛けてやっと到着した正門なき入場口で、同じTシャツを着たスタッフの一人からパンフレットを手渡された。パンフレットには全学科合同説明会の案内や、在校生が企画したイベントの予定表が載っている。

「あたし、説明会終わったらこれ行きたい。ピアノ協奏曲」

 秋音が指差したところに『中ホール』の文字がある。中と付くからには、構内には大なり小なり、コンサートホールが複数あるということだろう。(やっぱり音大ってすごい……)と吹雪が感動しているうちに、今度は秋音から置いてけぼりを喰らいかけた。


 真昼のだだっ広い大ホールですし詰め状態となった、二人と同じような境遇の高校生たちが、学校長や大学教授たちのありがたい話に耳を傾けること小一時間。

 長い説明会から解放された高校生たちは、今度はこぞって同じ扉から同じ方角を目指しぞろぞろと出て行く。目的はどうやら秋音も狙っていたピアノ協奏曲だ。便乗してのこのこと付いてきたに過ぎない吹雪が、毎年大人気なオーキャンの目玉イベントなど把握しているはずもない。

「あ〜……やっちゃった……」

 完全に出遅れた二人が会場へ着いた時には、スタッフに満員を告げられロビーで門前払いされてしまう。

 しばらくはやや足取りが重かった吹雪を忌々しげに睨んでいた秋音だったが、

「ま、しょうがない。切り替えよ。イベントは他にもいろいろあるし」

 誰よりも気持ちを切り替えられていないであろう険しい表情で、パンフレットをぱらぱらとめくり始める。吹雪も自分のぶんをぼうっと眺めた。吹奏楽とか、軽音楽やジャズのライブなんかがありはしないかと探していると、


(……『新作発表会』……?)


 ふっと目に飛び込んできた小さな五文字で首をひねる。

 音大事情にまだまだ疎い吹雪でも、音大とはなべて『クラシック音楽』を学ぶ場所だという程度の認識は持っていた。細かく区分された専門分野はいろいろあるだろうが、ピアノでもサクソフォンでも、習いたてが先生にまず覚えさせられるのは昔の人が作った曲ばかりなのだ。

 そんな睦ヶ峰芸大で──新作の発表会?

「ふーん。それにする?」吹雪の視線に気がついた秋音が、

「作曲科ね〜。……ま、いいや。行こ」

「え……良いのか? そんな軽いノリで決めて」

「別に良いじゃん、どうせ本命は外したし。早く行かないとまた満員になるよ」

 急かしてくるので吹雪もさっきよりは多少慌ててみる。

 しかしいざ着いてみれば、開演五分前でも客席はガラガラだった。ロビーなんて大それた空間もないし、そもそも会場がホールではない。実技系の授業で使っていそうな、グランドピアノが置かれた校舎の隅っこにある小さな部屋だ。

 廊下でスタッフにA4の紙切れを手渡され、あれよあれよという間に着席する。渡されたのは発表会のプログラムで、曲目、作曲者名、演奏する楽器とその演奏者のリストが書かれている。

 開演時間を迎えれば、ブザーも鳴らず、あいさつもなく、きっと隣の部屋で控えていたのだろう演奏者たちがのそのそと部屋前方まで歩いてくる。そのまま普通に礼をしてきたので、二人も他の客たちも慌てて拍手を入れた。

(な、なんだあ? 部活のミニコンサートだって、もうちょっと集客できるぞ……)

 演奏者たちは一応黒を基調にしたフォーマルな格好をしているが、壁周りを囲んでいる作曲科と思わしき人たちは、下手すれば普段着みたいなラフな服をそれぞれ着ていたりする。

 およそクラシックの演奏会とは思えぬ適当さ加減に、いったい目前でなにが起ころうとしているのか、吹雪は着席してからずっとドギマギしていた。

 グランドピアノを取り囲み、一番右端に立っていたヴァイオリン奏者が弓を引く。



 ──吹雪が聴いたのは音楽では無かった。

ひらけ、ツボミ』というタイトルの曲だった。フルートから鳥のさえずりを聴いた。ヴァイオリンがピッツィカートで新緑しんりょくの葉にしたたる朝露をピンと弾き出し、葉と繋がったしなやかな茎は、チェロの弓が弦の上を滑っていくように、開花へ向けウィイと真っ直ぐに伸びていった。

 ピアノのきめ細やかなパッセージがツボミに見えた。サナギの孵化にも似ている、と思った。袋に閉じ込められた鮮やかな色した花びらが、一枚ずつ、一枚ずつ外の世界へ解き放たれていく。


 ──吹雪が聴いたのは、吹雪の知る音楽という概念からは大きくかけ離れていた。

 ヴァイオリンとチェロとフルートとピアノの四重奏ではない。四つの楽器が、ひとつの大きなナニカに変身する瞬間を見た。

(終わっ……た?)

 時間経過を数えなくなった頃に演奏は止まり、しんとなった部屋でおもむろに演奏者たちがお辞儀する。壁際の人たちが手を叩かなければ、これでひとつの曲が終わったなどと誰も信じなかっただろう。

 なんの発展性も無い曲だった。西洋の、と書いてクラシックと読むような音楽では当たり前に存在しているメロディも、リズムもまるで見当たらない。

 ただ、ハーモニーだけは。

 四人の演奏家が奏でたハーモニーという名の完成形は、たったのいちフレーズ耳にしただけで、たったの一秒間触れただけで吹雪を未知の世界へ連れ出した。



 吹雪に新しい未知を与えたのは最初の曲だけでは無い。

『Endless XXXX』

『衣干すてふあまのかぐや姫』

『オセロ8×8/64マス/128分割』

 作曲科には大学生でも中二病しかいないのかと勘繰るような曲名に、やはり意味が分からない音楽。譜面台には演奏者の誰もが小難しそうな顔をして楽譜を置いているが、本当に楽譜通りに演奏しているのかと邪推じゃすいしたくなる。

 でも。

 それでも吹雪は、彼らの音楽に圧倒された。隣に秋音が居なくとも発表会の途中で席を立とうとは思わなかった。

 聴き逃せるフレーズが、時間が、どの曲にもひとつたりとも存在していなかった。自分が少し疲れているのが分かった。おそらく、一曲を聴くのに頭も五感も相当使っている。消耗しているのだ。

 それでも、この場で一度きりしか出会えない、一度聴いたら二度と巡り会えないかもしれない新世界が目まぐるしく迫ってくるから、とにかく音を聴けと訴えかけてくるから、吹雪は休む暇も隙も彼らに与えてはもらえないのだ。──お見合いとか、陽気な大学生がよく行くと噂の合コンもこんな感じなのかな、なんて曲と曲の合間にくだらない妄想を浮かべた自分に赤面する。

 そうして時間があっという間に過ぎ去り、いよいよプログラム最後の曲がやって来た。吹雪は膝に置いた紙切れへ視線を落とす。


 むかい菜穂子なおこ 作曲

『私は見ている(I'm Seeing)』


 ふらふらとした足取りで、真っ黒なワンピースを着た長髪の女性がグランドピアノの前にやって来る。まともに手入れしているかも分からない、癖っ毛がやけに目立つボサボサの髪だ。ワンピースの上からアーキしょくのブルゾンを羽織っているのも、どう考えたって不釣り合いで会場の雰囲気とまったく合っていない。

 小さく礼をしている間も客席に顔をしっかり見せようとはせず、身なりといい態度といい、今までに出てきた演奏者とはあきらかに様子が違っていた。

 ピアノ椅子に腰掛けた菜穂子は、おもむろにブルゾンのポケットの中身をガサゴソと漁る。なにを取り出すつもりなのか、と誰もが彼女の手先に集中した。

 菜穂子が握っていたのはペンチだった。それがペンチであると理解した時、吹雪の頭は思考するのを止めた。──が、

(なんだ……? 周りがうるさい)

 思考停止しかかったのはどうやら吹雪や他の客たちだけでは無いらしい。数秒経ってから壁際の人たちが内緒話を始め、途端に部屋がざわつき出したのだ。

 菜穂子が演奏を始めるまで、誰もがこれはあくまでも『新作発表会』の範疇はんちゅうであると認識していた。しかし、どう足掻いても認識を覆さざるを得なくなったのは、菜穂子が手にしていたペンチの分厚い刃を、椅子から立ち上がり開いていた蓋を覗き込んで、楽器の内側に張られた弦へ平然とあてがったからである。

「あのピアノ、内部奏法オッケーなの?」

 秋音がぼそりと呟いたのと、ペンチに強く圧力がかかり弦をはじき飛ばしたのはほとんど同じ瞬間の出来事だった。

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