1秒でオトすMUSIC NOTES

仲野ゆらぎ

Ⅰ 出会いと音大受験

SECTION.1 それは音楽か、テロリズムか

スタートライン数千メートル手前

 佐倉さくら吹雪ふぶきが初めてアルトサクソフォンを手にしたのは、高校入学後まもなく吹奏楽部の体験入部へ行った時。


 金色に輝くフォルムと明るくて大きな音が気に入って以降、毎日の部活動での練習がたまらなく楽しかった。小学校まではピアノを習っていた甲斐もあってか練習するほど早く上達し、たまたま演奏のセンスも悪くなかったらしい、秋頃にはパート内で一番のサクソフォン吹きになっていた。

 一年生にして演奏歴一年目の吹雪が、冬のソロコンクール出場を決めてもなお快進撃は止まらない。地区大会、県大会と着実に高得点を重ね入賞し、とうとう全国大会進出の切符まで掴んでしまったのだ。

 かくして、自他ともに城安じょうあんひがし高校吹奏楽部のエースの座に君臨した吹雪は、息子の活躍を喜んだ両親から、三月の誕生日にこんな提案を持ちかけられる。

「お前、サックスの才能あるんだよ。ここまで来たらいっそ音大目指さないか?」

「ピアノも一応残してあったし。吹雪はなんでも器用にこなすから、プロの演奏家にもすぐなれちゃうかもしれないわね」

 城安東は普通科で、両親も吹雪自身も、音楽で大学に進学するためのノウハウなどまったく持ち合わせていなかった。

 それでも吹雪はやる気になってしまい、部活の顧問とも相談しつつ自力で情報を集めていくようになったのが、二年生進級を間近に控えた頃。

(げ、私立の学費っか! やっぱ進学するなら国公立か……)

 大学一覧表を漁っていくと、どうも国公立の音楽大学は全国でたった四校しか存在していないらしい。

(東京と京都と愛知と……おっ沖縄⁉ とおっ! ってか管楽器科の定員少(すくな)なっ! 全パート合わせて三十人⁉ サックスは二、三人しか合格できないってこと⁉ ……ああそうか、これでも一学年で小編成バンドなら組めちゃうんだ)

 日に日に膨らんでいた絶対的な自信が一気に揺らぎかける。しかし、各校の学力偏差値を見た途端、その不安はすぐに払拭された。

(あ……偏差値は他の国公立ほど高くないな。さすが芸術系、勉強よりも演奏の実力が大事なのは当たり前か)

 むくむくと失いかけた自信を取り戻していく。

 幸いにも城安東は市内で偏差値高めの進学校と名が通っている。吹雪は定期テストでもそこそこの順位を維持していて、クラス担任からはこの調子で行けば国公立が狙える成績だとお墨付きを得ていた。

 ならば残された問題は、実技試験では楽器演奏以外の試験もいろいろ用意されていること。

(ソルフェージュも楽典も、部活の中でだいたいやってるからな。あとはピアノか。……ま、受験まであと二年あるし)

 ピアノは昔通っていた、音楽教室の先生あたりにでも久々に面倒見てもらおうか。

 進路相談室の本棚で腕を組み、しばらく悩んでいた吹雪は、ふと幼少時代の記憶を掘り起こす。


(……あれ。僕、なんでピアノ辞めたんだっけ)


 物心ついた頃から母親に連れていかれるようになった近所の音楽教室は、音大生も数多く輩出しているような、コンクール至上主義の先生が指導していた。もちろん吹雪もいろいろなコンクールの課題曲を弾かされてきたけれど、先生はいつも厳しくて怒りっぽく、少しでも間違えれば手のひらを叩いてくるようなおばさんだった。

 きっとあの先生が好きじゃなかったから、中学でサッカー部に入ることを建前に、教室を退会したのだろう。あの後、実際に入部したのはサッカー部ではなく卓球部だけれども。

(チェルニーの練習曲、バッハの平均律へいきんりつ、ベートーヴェンのピアノソナタ……さすがに弾いたことある曲はほとんど無いな)

 家へ帰ってくるなりパソコンで受験の課題曲を眺めても、吹雪は自信を失うことはなかった。

(自分で練習すればいいや。嫌いな先生に会うのはもう勘弁だし……あ、それかあいつ……)

 吹雪は思い付きでスマホ画面を開く。

 今は違う高校に通っている、同じ音楽教室で育った幼なじみにSNSでお伺いを立ててみる。当時は教室で一番ピアノが上手く、音高に進学したわけでもないのに、いまだコンクール全国大会常連と噂のあいつ。

〈東京芸大が第一志望なんだけど、ピアノ教えてくれない?〉

 すぐに返ってきた彼女の答えはこうだ。

〈ナメるな。黙って私立に投資するか、大学の音楽サークルで我慢すれば?〉

 相変わらずSNSエスエヌエスの中でだけはやたらと口が悪い。

 そっとスマホ画面を閉じた吹雪は、学ランのままベッドへ身を投げ仰向けとなり、天井のシミを数えていく。

(……僕がプロの演奏家かあ)

 自分が広いコンサートホールの舞台上で、あるいはライブハウスの大歓声の中でスポットライトを浴びてサクソフォンを吹き鳴らす未来の姿があまり想像できない。親や先生たちに上手いこと乗せられ急に音大志望などと叫んだところで、具体的な将来設計が脳内でえがき出せないのはごく自然のことだ、と吹雪は俯瞰ふかんする。

(もしなれれば超格好良いよなあ。一度くらい上京もしてみたかったし。音楽で大学行ったら、今よりもっと楽器が上手い友達、たくさんできるんだろうな……)

 そんな未来図を思い浮かべながら眠りにつく。

 翌週、一年生として最後の登校を終え、さらに数週間が経ち進級した、最初の進路志望書にはいよいよ一番上の欄に『東京上野うえの芸術大学』と記入する。ここが日本最高峰の国公立芸大だ。

 吹雪は二年生になっても今まで通り部活動に勤しみ、勉学に励み、時間のある週末は家でピアノの練習やソルフェージュの問題集もこなした。



 そうして春も過ぎつつあった、ゴールデンウィーク直前。

 SNSではあんなにツンツンしていた幼なじみから、前触れも前置きもなく、こんな一文が送られてくる。


睦ヶ峰むつがみね芸大が第一志望なんだけど、オーキャン行かない?〉


 オーキャンとはオープンキャンパスの略だ。なるほどその手があったか、と部活動終わりの音楽室で膝を打つ。

 本当は意趣いしゅがえしで〈デレるな。黙ってひとりで行くか、音高おんこうヴァイオリン科の元カレ誘えば?〉と書きたかったがここはぐっと堪え、簡潔に〈行く〉の二文字を送る。

 まもなく可愛らしい猫のスタンプと、日時を知らせるホームページのリンクが返されたのを見届けてからスマホ画面を閉じた。勢いで了承してした後に慌てて予定表を確認すると、指定された日はちょうど部活動も休みで安堵する。

(ま、受験の話聞くだけなら睦ヶ峰でも東京芸大でもそんなに変わらないだろ)

 愛知県立睦ヶ峰芸術大学。

 地元の国公立だからと第二志望の欄にとりあえず書き加えておいただけの、さほど思い入れが無い大学。

 そのオープンキャンパスにて吹雪はやっと、部活動の範疇から外の世界へと一歩踏み出し、真面目にプロを目指すためのスタートライン数千メートル手前、、、、、、、、、、、、、、、くらいまで到達しようとしていたのだった。

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