第11話
曇天の下、一人の少年が土手の上から川面を眺めていた。
対岸まで一間はあろうかという大きな川だ。
普段は水量も少なくただ芦原が広がるばかりなのだが、今は流れも激しく轟々と大量の水が逆巻いている。
普段は子供達が石合戦を行っている河原すらも川底と化して久しい。
何せ、今少年が立つ堤すら、いつ破れてもおかしくない程なのだ。
「……」
その光景は、まさに天変地異と言って差し支えない様相であった。だが、少年はとりわけ感慨もなく無言のままそれを望んでいる。
ただ一つ――この日この時この場所で、己がただ一つの石くれであるかの様に。
「……是非も無し」
やがてポツリとそう呟き、大きく息を吸い込んだ少年は、腹の底から大声を出して叫ぶ。
「―――おおおぉぉぉぉ!!」
それはまるで己の存在を主張するかの様な雄叫びだった。いや、実際少年はそのつもりで叫んだのだろう。
しかし、彼の雄叫びに呼応する者は誰一人いない。
その叫びは、ただただ川面の奔流に呑み込まれていくのみ。
そこにポツリと雨粒が落ちる。
男児の名は吉法師といった。
尾張随一の実力者、織田弾正忠家当主・織田備後守信秀の嫡子である。
が、今だ十にも満たない子供。
――彼が何の為に何を為すのか。
それはまだ、誰も知らない。
****
「何、また吉法師が城を抜け出した?」
「はい。何より、以前にまして素行のほうも宜しくなく……」
古渡城の執務室にて吉法師の傅役である平手五郎左衛門政秀の報告を受けた信秀は顔をしかめた。
「吉法師の事はお主に任せておるのだ、その様な事を一々報告せずとも良いわ。
……儂は美濃の事や此度の嵐の事で忙しいと言うに」
「申し訳ございませぬ。されど殿、吉法師様は殿の御嫡男ですぞ? 万が一の事があればどうないます」
「ふん、放って置け。そのうち勝手に帰ってくるであろうよ。
それに、多少の粗相の一つ二つ、儂等とて若い頃は散々やった事ではないか。のう、五郎左よ」
政秀の苦言に辟易した面持ちを浮かべながら、信秀は手に持った筆を置く。
そして机の上で肘を突き、両手を組む様にして顎を乗せた。
「それよりも問題は斎藤よ……。
彼奴め着々と地盤を固め、明日にも守護を叩き出す勢い。――まったく羨ましいとは思わんか?」
そう言ってニヤリと笑う信秀に対し、政秀は苦虫を噛み潰した様な顔を見せる。
「……殿、どこに耳があるか分かりませぬゆえ、あまりそういった言は……」
そんな政秀の言葉を受け、信秀は再び口の端を上げる。だが今度は、先ほどとは違いどこか自嘲気味な笑みであった。
「分かっておるわ。
しかし、口惜しいのよ。
儂が守護……いや、守護代で良い、今少し力があれば美濃も三河も、今川すら呑み込んでみせるというのに」
笑いを消し、悔しさを滲ませる様にギリっと歯ぎしりをする信秀。
その姿を見た政秀は小さく溜息をつく。
(殿のお気持ちも分からんでもないが……)
信秀の才気は誰もが認めるところではある。
だが、信秀が当主を勤める織田弾正忠家は守護配下の守護代、その又守護代の配下でしかないのだ。
どれ程戦で勝とうと、領地を広げようと家格というしがらみに信秀は雁字搦めにされている。
だからこそ、それをぶち壊している斎藤山城守利政が羨ましくもあり、また同時に妬ましくもあるのだろう。
「政秀、儂は必ず美濃を手に入れるぞ。……何をおいても必ずな」
そう呟く、信秀の眼には、ゆらゆらと炎が揺らめいていた。
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