第8話
宗三郎は若い。だが、子供といえる歳でも無い。
肉体が成熟し始め、活力に満ちている。
それでいて、未だ穢れの無い清らかな空気を纏い、脈々と受け継がれてきた血統の良さが面立ちに現れている。
――言ってしまえば貴公子然とした男前なのだ。
長く過ごしていた城内でも、若い女中どころかトウの立った姥桜にまで、宗三郎はどこか熱の籠った視線を向けられるのが常であった。
もっとも本人は女癖の悪い父・道直と、その周囲の者たちに酷く、冥い感情を向けていた本妻の間柄を眺めるに、 敢えてその面に鈍するべく努めていたのだが。
しかし、重ねて言うが宗三郎は若い。
だからこそ若き肉体と心が夢想の内で、その熱き血潮を、煮えたぎった奔流として吐き出させるのは何ら不思議な事では無い。
――例え、酷く甘く、心地良い夢の原因が、酒臭い息を吐き高いびきを掻く、歳の離れた偉丈夫に張り付かれて生じた熱だとしても……。
「…………」
微睡みから目覚めた宗三郎は、夢の中で感じた恍惚感が、目の前の男の寝顔と下腹部の不快感が合わさって瞬く間に消え去り、自己嫌悪感に変わりゆくのを感じた。
それはこの場で腹を掻っ捌き、自害したい程の物だった。
「……はぁ」
溜め息を吐きつつ新城を押し退け、宗三郎はのそのそと掻巻から這い出し身体を起こす。
夜も明けきらず、辺りは未だにほの暗い。宿の仕事を始めるにしても早すぎる。
だが、下半身を清めなければ仕事に取り掛かれもしない。
そう思い立ち、宗三郎は新城を起こさぬ様気配を殺しながら廊下に歩み出た。
階下に降り井戸場に行き、着物を脱ぐと桶で水を汲み上げ、下帯を濯ぎ行水を行う。
まだまだ暖かいとはいえ、明け方の井戸水は冷たい。
つい身震いしそうになるのを抑え、手早く身を清める。
冷え切った水が全身の血の巡りを止め、未だ余韻の残る淫猥な妄想を振り払ってくれるかの如く感じられた。
宗三郎は無言のまま頭から水を被り続ける。何度も、何度も繰り返し、水音だけが響く。
ようやく人心地付いた頃、ガタリと宿から物音が響く。
振り向くとそこには戸板を開け放つ女将の姿があった。
「あら、おはよう。宗三郎さん」
「ああ……、おはよう。お篠殿」
裸なのを気にしつつ、慌てて挨拶する宗三郎だったが
それを気にする事無く、女将――お篠は続けて口を開く。
「随分早いじゃないかい? まだ日も昇っていないよ?」
「あーうん。新城殿の酒臭い息で目が覚めてしまってな、仕方が無いのでこうして水を被っていた所だよ……」
頭を掻きつつ苦笑してみせる宗三郎。
「まったく、あの碌でなしは本当にしょうが無いねぇ」
呆れた様子を見せるお篠であったが、気を取り直し再び言葉を紡ぐ。
「まあいいや、それより起きたんだったら、水瓶に新しい水を汲んでくれないかい? 朝一番の分が無くなってしまっているんだ。それが済んだら店の前を掃いておくれよ」
「分かった。直ぐ汲む」
「頼むね。あたしゃ店の朝餉の支度をしているから」
そう言い残し、すたすたと部屋の中へと去って行くお篠の後ろ姿を宗三郎は少しの間じっと見やる。
が、直ぐに我に返り、言い付けられた仕事をこなさねばと動き出すのだった。
****
この宿は、元々お篠の夫が父母と営んでいた物だった。
夫もその親も身寄りの無いお篠を虐げる事も無く、かえって実の娘の様に可愛がっていた。やがて子も産まれ、宿も繁盛し順風満帆といった日々。
しかし数年前に突如、お篠を残して皆流行り病で亡くなってしまった。
更に、番頭を任せていた男が店の金を持ち逃げすると、雇い人までが蜘蛛の子を散らす様に去って行った。
金も無く、一人残されたお篠だけでは、まともに商売として成り立つ訳も無く、やがて宿屋は寂れた安宿と成り果てた。
――以前、宗三郎にそう語るたお篠の顔は感情の抜け落ちた人形の様であった。
事実、そうなのだろう。彼女はもう、全てを諦めているのだろう。
何もかもがどうでも良いのだ。
宗三郎にはそれが、無性に切なく思えるのだった。
****
宗三郎が水を汲み、道を掃き終わる頃には辺りも随分明るくなっていた。
「ふぅ」
一息つき、ぐっと伸びをする宗三郎。
掃き掃除も水汲みも今まではやった事が無かったが、すっかり慣れてしまった。
「……さて、そろそろか」
宗三郎が庭を裏に回って厨に向かうと、土間を上がった板の間で丁度お篠が朝餉を膳に載せている所であった。
「ああ、ご苦労さま。あとは味噌汁をよそうだけだから、あの碌でなしも呼んで来ておくれよ」
「分かった」
宗三郎はそう短く返事をしてそのまま二階へ向かうと襖を開け、未だ寝息を立てる男の肩を掴むとゆさゆさと揺さぶる。
「新城殿、起きてくれ。もう飯が出来てるぞ」
う~、とか、あ~、などと何事かを囁くながらも目を開けない男を見て、宗三郎は溜め息を吐く。
「……仕方がないな」
そう呟いた宗三郎はおもむろに、部屋に据えられた己の刀を取ると僅かに構える。
その刹那、それまで眠り続けていた新城が、目を見開き飛び上がる様にして跳ね起きる。
「クッ! ――――何だ、宗三郎殿か……」
暫く辺りを見回して、新城は宗三郎に向き直ると不機嫌そうにそう呟く。
そんな新城を無視して、宗三郎は手に持つ刀を元の所に戻す。
宗三郎は、この男がたまに示すこのような仕草、それを見ると新城との間に隔たりの様な物を覚えるのだ。生まれた時代や境遇などより、余程大きな隔たりを。
だが、それはきっと他人がおいそれと触れて良い物では無いだろうとも思う。だから今は、新城に何かを尋ねる事は無い。
――例え、その事に言い知れぬ恐怖を感じたとしてもだ。
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