鴻鵠
鶴崎城主・吉岡左衛門大夫長増の朝は早い。
夜明け頃には目を覚まし、井戸で水を浴びると暫し庭にて木刀を振る。そして、炊煙が鶴崎の町から立ち上る頃にそれを切り上げる。
その後は、屋敷の仏間にて八幡大神と自らの祖霊に祈りを捧げた後、手早く食事を摂り政務を始めるのだ。
ここまでが可判衆を勤めていた時も、軍陣以外では毎日欠かさず行ってきた長増の日課である。
だが、その日課もここ数日は滞りがちであった。
原因は、今部屋で執務を執る長増の隣に座り、辺りを見回している一人の童にあった。
「塩法師様。また手元が留守になっておりますぞ、そこの相反する二つの陳情を如何始末するか、考えて頂きたい。と、言ったのはもう二日も前になりますが、如何なりましたかな?」
そう言いながら長増が視線を向けた先にいる子供の名は、大友塩法師丸という。豊後一帯を統治する大友義鑑の嫡男。つまり大友家・次期当主である。
未だ髷すら結わない禿髪、齢は十を過ぎたばかりの子供だ。
「もう飽きたぞ左衛門大夫! 第一、此度の様な村の水利争いなぞ答えが出る訳が無かろう。どちらかの要求を入れればもう片一方が干上がってしまうわ」
そう言った塩法師丸は手にした書状を投げ出してしまう。
(……まぁ、そうだろうの)
それも無理は無いと長増も思う。
相手は未だ十かそこら、長増ですら苦しむ様な争議を裁ける訳が無いのだ。
「――それでもやって頂きたい。
御館様からは、政の心得をしかと塩法師様に指南する様に。と、この長増、言いつかっておりますれば……」
「父上も余計な事を!」
長増の言葉を聞き、塩法師丸は舌打ち混じりに吐き捨てる。だが、塩法師丸の鬱屈した情はますます高まって行く。
「どうせ、父上は俺に家を継がせる気などあるまいに。 塩市丸が余程可愛いと見える」
「……」
吐き捨てる様に言う塩法師丸に、長増は頭を垂れるしか無い。
確かに、今の大友家中において、塩法師丸の立場は決して良いものでは無かった。
当代当主・大友義鑑は、奔放な性格の嫡男・塩法師丸よりも妾腹の子である塩市丸を溺愛しているという噂は、家中で既に公然の秘密となっているのだ。
しかも元来、塩法師丸の味方をすべき傅役の入田丹後守が、あちこちで塩法師丸の悪評を広めて回っているのだから余計タチが悪い。
「……毅然とする事ですな。
誰の目にも塩法師様が大友の当主に相応しいと映れば、不評など独りでに消え去り、御館様もお認めになるでしょう」
そのような事は言われずとも分かっている、長増の言外の考えを感じ取りながらも、塩法師丸は苛立たしげに言葉を返す。
「ふん! 色眼鏡で見る者共に媚を売れと? その様な事をするくらいならば、俺は寺に入って大友の名を捨てるわ! 生きたい様に生きられず何が人ぞ」
その姿勢に長増は苦笑を浮かべるが、すぐに面持ちを引き締める。
(フフ……幼子がふかしよる。
しかし、このままでは不味い)
長増個人としては好ましいと思える、気概の有る童である。だが、これでは余計に周囲の反発を買うのは目に見えていた。
「……先ごろ、一人の流れ者が湊で騒ぎを起こしましてな」
「出し抜けに何の話だ?」
いきなり脈絡の無い話を始めた長増に、塩法師丸は怪訝な顔を向ける。
それに構わず長増は言葉を続ける。
「――その流れ者は酒場で不意に土地の無頼に喧嘩を売ると、その仲間十余名。刀を持ったその悉くを無手にて叩き伏せたそうです」
「ほう! それは剛の者よのぅ。中々の傑物と見た」
興味深げに身を乗り出す塩法師丸に長増は口の端を吊り上げる。
「塩法師様はそう思われますか? 某はここまでであれば然し関心を懐きませぬ。
いくら自信があったとしても、自らその様な形勢を作るなどただの猪武者のやる事。策としては下の下であると。……ここまでであれば」
そう言って長増は意味あり気に微笑む。
その表情に何かを察したのか、塩法師丸の顔が引き締まる。
長増は続ける。
「この流れ者は何故か今、己が叩きのめした無頼共に力を貸しているのですよ。いや、従えていると言っても良いかも知れない。
それでも奴等に憎まれるどころか、一目置かれ敬いすらされている。
――お分かりになりますか、塩法師様?
この流れ者は自らが争った敵と矛を収めるだけで無く、瞬く間に懐の内に入り込んでしまった。
これがどれ程、困難で恐ろしい事か」
塩法師丸が目を見開きポツリと呟く。
「……つまり、おぬしは俺に何を言いたい」
長増が目を細めて微笑む。
「理屈や道理では無いのですよ。
――ただ、人の懐に入り込む術を学びなされ。さすれば人は皆、塩法師様の御心に添って働く事でしょう」
「……」
長増の言葉を聞き、塩法師丸は暫し沈黙する。そして徐に立ち上がると部屋を出て行ってしまう。
その背を見送った後、長増は重ねて溜息を吐いた。
(……やはり、性急過ぎたか)
正直なところ長増は、塩法師丸がこの話から今すぐ何かを掴み取るとは考えていなかった。
だが、奔放ではあるが聡明なこの童に何か切っ掛けを与える事ができるのではと思い、押して口に出したのだ。
(まぁ良い。まだまだ幼いのだ、後は塩法師様次第。
それより気になるのは)
長増は配下がしたためた一枚の報告書に視線を落とす。
(流れ者と共に四国から渡って来たというこの若武者。伊予が荒れているこの時分に。……気になるの)
「少し探りを入れてみるか」
独り言の様に長増は囁く。
――ゆらりと僅かに、空気が揺れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます