旅の空

 阿蘇あそ日向ひゅうがの山間から生じた河川が徐々に寄り集まった大野川。その大河が、豊後国ぶんごのくにを横断する様に流れ菡萏湾かんたんわんに流れ込んだ、その河口付近に鶴崎つるさきの湊は位置している。


 のっぺりとした中洲に築かれた湊町は、大野川舟運の起点、及び瀬戸内・南海水運の重要な拠点として大いに栄え、諸国にその名を轟かす大友氏の領国の玄関口として相応しい賑わいを呈していた。


 そんな鶴崎の湊に今、一艘の小船が入港しようとしていた。


「お〜い! お侍さんたち、そろそろ鶴崎の湊に着くぜ……って、おいおいそっちのお方は平気なんか?」


 船室を覗き込み、そう声を掛ける一人の水手が見た物は、真っ青な顔で踞る宗三郎と、それを呆れ顔で見やる新城の姿であった。


「ああ、酔って気分が優れないだけだ。心配無い」


「……そんな所で吐かんでくれよ?」


 そう言って水手は船室を後にする。その後ろ姿を見やりつつ、新城は宗三郎に話し掛けた。


「……それで、どうにか無事に九州に渡れた訳だが。この後はどうするんだ? 美濃に向かうつもりだとは聞いたが……」


「四国を脱した後の事まで余り考えておらなんだ。

……後、な。――実はもう金が残り少ないのだ」


 青い顔をしかめつつ宗三郎は気まずそうに囁く。


「元々、部屋住み故、大した額を持ち出せた訳でも無く。いざとなれば売れば良いと思っていた馬も失い、お主の身形をマシにする為に余程ぼったくられ、後はこの船代。もはや伊予にも戻れぬ」


「お前……」

(そんななのに酒を買っていたのか……)


 それを聞き、新城も流石に呆れ返って言葉を失う。


「いやぁ、城を出た時は何だかんだで上手く行ったと思っておったが……。やはり世の中そう甘くは無いのう!」


 青い顔で笑いながら宗三郎は頭を掻く。

 一方、新城は頭を抱え溜め息をつく。


「育ちの良いお坊ちゃんだとは思ったが、ここまでとはな……。

 まあ良い、取り敢えず船を降りたら安く泊まれる宿を探すぞ。その後は二人で路銀ろぎん稼ぎだ」


「うむ、済まんな」


 二人は各々、己の荷を持ち船室を出る。

 宗三郎は腰に差した刀と小物を入れた風呂敷包みのみ。

 新城も軍刀と筵にくるんだ小銃、あとは背嚢から使える物を浚って集めた風呂敷包み。  


 これで美濃まで旅をするには心許ない装備ではある。


 おまけに、埃まみれとはいえ一応武士の格好をした宗三郎はまだマシだが、新城にいたっては農民から買い取ったただの野良着。

 これで旅をするのは些か悪目立ちが過ぎる。


 その為、装備を整える為にどのみち二人はここらで金を稼がなければいけなかったのだ。


****


 舟を降りた二人を待ち受けていたのは、湊町独特の、どことなく猥褻な空気も含みながらも生気に満ちた町並みと、そこを往来する大勢の人々の姿だった。

 商人や船乗りだけでなく、武士や異国の者まで、様々だ。


 そんな湊町の喧騒の中を、新城と宗三郎は歩き出す。

 港湾部から少し歩けばそこは盛場、幾つもの酒場や宿に、妓楼ぎろうなどが立ち並ぶ。


 折しも宵の口に入り、かきいれ時とばかりに張り切る客引きの声が響く中、新城と宗三郎は通りを進んで行く。


「そこのお侍様とお連れのお方!

 当宿にて旅の疲れを癒して行かれませんか?

 山海の珍味にうまい酒、綺麗どころも揃っておりますよ!」


「あんちゃん達! うちで一杯やってかないかい? 良い女いるよぉ?」


「そっちの兄さん! うちに寄ってきなよ。今なら可愛い子付けてやるよ!」


 道行く二人に、次々と声がかかる。


「なあ新城殿、せっかく町に着いたのだ、少し寄って行かぬか?」


 場の賑やかな空気に当てられたのか、そう声を掛けてきた店の一つを指差す宗三郎に、


「阿呆、そんなゆとりは無い。そもそも俺達は金が無いんだぞ?

 アンタの持つ残り五百文かそこらで当座を凌がなけりゃならないんだ」


と、新城は返す。


「う~む、確かに」


 そう言いつつも名残惜しそうな宗三郎に


「ほら、さっさと行くぞ。まずは宿だ」


と、新城が促し二人は再び歩みを進める。


 以降も、宗三郎が目を付けた店を片端から冷やかし、その都度、新城にたしなめられていたのだが、そんな中、一軒の宿屋の前で新城は立ち止まる。


「……ここが良いか」


 そこは、いかにも安宿といった二階建ての建物だった。薄汚れて、どことなく土台から傾いている様にすら見える。


 入り口脇に立て掛けられた木板には

『木賃 一人三十文』

 としたためられていた。


(どう見てもボロ宿だが、背に腹は変えられないか)


「おい、宗三郎殿。ここにするぞ」


「ん? ――随分と酷い宿だな」


「……まあな。だが、金が無い以上文句は言えん」


 そう言い合いつつ、新城は宗三郎を伴い宿に入る。


「ごめんください」


 そう言って宿に入った新城を迎えるたのは、痩せた年増の女であった。

 上等ではあるが喪服のような黒い着物を着た女だ。


 女は宿の主人らしく、番台の向こうで帳簿の様な物に何かを書き込んでいた。


「いらっしゃいませ」


 こちらを見向きもせず、愛想無く呟いた女将に、

「二人分、宿を借りたいんだが」と、新城は話し掛けるが、


「あいにく見ての通りの安宿でね。

 お侍様をお通し出来る様な部屋は有りませんで、他所をお当たり下さいな」


と、素気なく返される。


「なに、俺達も貧乏道中の最中。

 屋根さえあれば充分だ。なあ、宗三郎殿」


「……ああ、寝られれば良い」


 そう新城と宗三郎が答えると、一つ溜め息を吐き、


「はぁ、それならば良いですけど。……では、一泊三十文になります、前払いでお願いしますよ。湯を所望なされる折は桶一杯で十文。飯は付きませんからね」


と、ようやく顔を上げこちらを見た女将が伝えてくる。


 大きめの三白眼が印象的な、三十路を若干過ぎた様に見える女だ。

 荒んではいるが妙な色気のある顔つきだと、宗三郎はつい見惚れてしまう。


「――おい、宗三郎殿!」


「お、おう。済まん。つい」


 小声で叱りつけてきた新城に、宗三郎は慌てて返事をし懐を探る。

 そして、抜き出した銭入れの中から銭を取り出し、それを番台に置いた。


「これで間に合うか?」


「はい、……確かに。

 二階の部屋を適当に使って下さいな。

 あと、厠はそこの木戸の向こう側ですからね」


 そう言いながら、女は無造作に木戸を示す。


「分かった。ありがとう」


「いえ、どういたしまして」


 そう言うと、女は再び帳簿へと視線を落とす。


「では、部屋に行こう。宗三郎殿」


「うむ」


 二人は足早に宿の奥へと向かうのだった。


****


「ふう、ようやく休める」


 部屋の襖を開け、四畳ほどの部屋の中に入ると宗三郎はどっと床の上に腰を下ろした。

 畳など上等な物は無い。ただの木の床だ。

 襖や障子は破け、隙間風が吹き抜けるとはいえ、それでもここ数日の寝床に比べれば雲泥の差だろう。


「ふぅ……」


 宗三郎に続き部屋に入り、同様に腰を下ろすと新城も溜め息をつきつつ囁く。


「さて、宗三郎殿。これからの事について話をしようか」


 それを聞いた宗三郎も姿勢を正す。


「……そうだな。まずは金を稼がなければ、明日にも文無しだ」


「その通り。幸い、ここは湊町。日雇い仕事でも探せば幾らでもある筈だ」


「うむ、だが……」


 そう言葉を濁した宗三郎に、新城が茶化す様に問う。


「どうした、守護家の御曹司はそのような下賎な仕事は出来かねるか?」


 それを聞いた宗三郎は、眦を釣り上げ新城を睨み付ける。


「馬鹿にするな! ……守護の落し胤とはいえ母は土豪の娘、気取れる程の血筋では無いわ。

 ――と言いたいところだが、屋敷に押し込められていただけの身の上。正直自信は無いな」


「ふん、威勢が良いのは初めだけか。

 まあ良い。まずは俺が町で職を探してみる。

 その間に宗三郎殿は女将を口説きがてら、働き口が無いか尋ねてみてくれ」 


 ニヤリと笑みを浮かべた新城は、そう言いながら立ち上がると、筵を巻いた小銃を掴み部屋を出て行こうとする。だが、


「ちょっと待て、何故私が女将を口説かねばならぬのだ!?」


と宗三郎が金切り声を上げるのを聞き、立ち止まる。


「……何だ、嫌なのか? 俺にはお前が女将に見惚れている様に見えたんだがな」


「そ、それは……!」


「なぁに、女を口説くのはいけない事じゃ無いぞ? 女の機嫌を取っておけば、色々と役に立つ事もある

 自信を持て、アンタは中々良い男振りをしている。押せばイケるさ」


 そう己の肩を叩き、やたらと良い笑みを浮かべる新城に、宗三郎は怒って良いやら照れれば良いやら訳が分からなくなり、言葉につまる。


「ぬ、ぐ、ぬ……」


「では任せたぞ」


 そう言い残すと、今度こそ新城は部屋から出て行った。――宗三郎の懐から銭入れを抜き取りつつ。


「ちっ、……あの男め」


 舌打ちしつつ、宗三郎は呟く。


(まあ、随分変わったものだ。初めはそれこそ、私も喰い殺さんばかりの飢えた眼をしていたが……)


 それが今ではすっかり落ち着き、宗三郎をからかう余裕すら感じられる様になったのだ。


 ――もっとも、それが良い事かどうかは分からないが。

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