豊後・鶴崎編~若人たちのリリック~

天涯

 その日が桃の節句だったと、俺は後から思い出した。


 無理も無いだろ? 日本本土から遥かに離れた、南洋の大海原を日々望んでいればそんなモノは、何処か別の世の行事にしか思えなくなるものだ。

 まして明日にも海の藻屑と消えかねないとなれば、尚更だろう。


 まぁ、良いや。


 こと船舶兵というのは、その職業柄から各地の戦局が耳に入りやすい。

 だから、海軍さんが大負けした事も、ソロモンからこっちも危ういって事も伝わって来てはいた。


 もっとも、本土とトラック、ラバウルまでを往復している間は、俺達の最大の敵は潜水艦とラバウル周辺での空襲。……これだけでも命懸けだったがな。


 いよいよだと思ったのは、ソロモンから引き揚げて来た兵隊、奴等の死に様を見聞きした時だ。


 制空権を奪われ、補給すらままならぬ小さな島で草木の根や……同胞まで食さねばならぬ程、追い詰められた兵士達がやっとの思いで乗り込んだ撤退の為の駆逐艦。


 そこで彼等は出された労りの為のご馳走を貪り、バタバタと死んでいった……。


 上官達は勿論そんな事、口外しない。

 だが、俺達は海軍さんの水兵から直接その話を聞いて、遺体の搬出も手伝ったんだ。


 ……恐ろしかったよ。

 死ぬのが恐いんじゃ無い。そんな、何の為に死んだのか分からない死に方をするのが途轍も無く、恐かったんだ。


 だから、俺は必死に自分自身に言い聞かせた。


 コイツらは無駄死にした訳じゃ無いと、畏れ多くも天皇陛下の藩屏はんぺいとして、果敢に戦って死んだのだと。

 俺達も死んでも靖国で戦友と再開出来るのだと、な……。


 ――話が逸れた。

 三月三日、明朝、良く晴れた日っだった。


 ラバウルからニューギニア東部北岸への大輸送作戦。散々、危ぶまれた作戦だったが、司令部も中央の意思には逆らえなかったらしい。


 途中、何度か敵襲を受けたが作戦には支障無し。ひょっとしたらこのまま上手く行くかも、なんて思いが頭に浮かんだ。


 奥深い群青色の海と、何処までも続く蒼い空、碧玉のごとき島々。その合間に白い雲がポツンと浮かぶ様は、この世の物とは思えぬ程に美しかった。


 ――――そこに奴等はやって来た。

 周辺から根こそぎ掻き集めた友軍の護衛戦闘機より、余程多い敵機。

 空も覆い尽くさんばかりの戦爆連合は瞬く間に俺達の船を沈めていく。


 ――俺は船舶砲兵だ。船を守るのが仕事だ。

 勿論、死に物狂いで反撃した。僅か五十センチばかし隣にいた高射砲の装填手、十九かそこらの一等卒が敵戦闘機の銃撃にやられてぶちまけた脳漿にまみれながらも、対空火器の諸元を指示していたさ。


 だが、たったの四半刻ほどで護衛の駆逐艦も輸送船も半数ほどが沈められ、更に数時間後には重ねて航空攻撃とトドメの魚雷艇による襲撃を受けた。


 それ以降は知らん、俺達の乗っていた輸送船も沈められたから。

 それまでに部下は半数が挽き肉になるか、バラバラに吹き飛んでいた。俺も片耳が半分千切れ飛んだ。


 ……まぁ、俺達はまだマシだったかもな、なんせ相手に撃ち返す事が出来たんだから。

 大半の陸軍兵は船倉に押し込められたまま、一発の銃弾を放つ事も無く船を沈められ、運の悪い奴はそのまま海の藻屑だ。


 運良く――と、言えるかは後から考えると分からんが――船の沈没に巻き込まれる事無く船外に投げ出された俺は、以来三日三晩、海上を漂流した。

 その間も、時たま敵機がやって来ては海に浮かぶ兵士達を銃撃していくんだ。

 反撃手段も持たない俺達をな。


 まぁ、殺られる側はたまったものじゃ無いが、理解は出来る。

 漂流している兵が味方に収容されれば、そいつらはまた銃を取るのだ。

 それを許容して貰えるほど、俺達は弱く無いし、相手も強く無い。


 どちらも、ただの人なのだから。


****


「――殿、新城殿!」


 誰かに強く肩を揺すられ、ゆっくりと眼を開ける。


「……新城殿、目が覚めたか」


 眼前では、些か古風だが育ちの良さそうな顔立ちの男が、こちらを気がかりそうに覗き込んでいた。


「――宗三郎殿か。

 ……そうか、寝ていたか、俺は」


 新城は億劫だったが、なんとか身体を引き起こす。背骨がミシミシと音を立てているような気がした。


 余程、長く眠っていたようだ。


「あぁ、随分魘されていた。

 ……それにしてもこんな揺れの中、良く眠れるものだ」


 宗三郎は呆れたように言う。

 

確かに彼の言う通り、ここは豊後水道。

舟は由良半島に沿うように西へと帆を向けて波を掻き分けるように進んでいた。


「いや、慣れだよ。……慣れただけだ。

 それより、もうすぐ鶴崎に着くのかい?」


「いや、まだ先だ。

 今の所は順調で、このまま進めば日暮れ前には着くだろう。と、船頭は言っていた」


 そう言いつつ宗三郎は船室――というのも烏滸おこがましい掘っ立て小屋のような物だが――に、山積にされた行李や米俵の隙間に寝そべっていた新城の前に、どかりと胡座あぐらをかき、傍に置かれた椀を指し示す。


「雑魚と一緒に炊いた味噌粥だそうだ、水手かこに分けて貰った。……波でひっくり返る前に食べてくれ」


 椀からは湯気が立ち上り、食欲を刺激する味噌の匂いが漂って来る。

 ぐぅと新城の胃袋が鳴った。


「あぁ、頂こう」


 新城はその器を受け取り、口を付ける。

 僅かばかり塩味が強いが、その分麦の香りが鼻腔に抜けていく。

 何より温かい食事と言うのは有難かった。


 無心に椀を掻き込みながら、ふと、横に腰掛けた宗三郎に視線を向けた。


 宗三郎は何を言うでも無く、じっと新城の顔を見詰めている。

 水を浴び、髭を剃り簡単に頭髪を整えた新城は、大分痩せ衰えてはいるが己より一回りほど上。そう、村上右衛門大夫ほどの歳だと宗三郎には見えた。

 そう古く無い右耳の傷と相まって、つい身を竦ませてしまうような凄みを覚える。


「……何だ、ジロジロと見るな。

 飯が不味くなるだろうが」


 新城は椀から口を離し、眉間に深い縦じわを寄せた。


「いや……真に人なのだなと思ってな。 

 ……初めてお主に会った時は、獣のごとき風体に酷い臭い、これがあの餓鬼という者かと本気で考えたぐらいなのだか……」


「それは流石に酷くないか? 俺だって人の子だぞ?」


 新城は苦笑しつつ、横に置いてあった瓢箪ひょうたんに手を伸ばす。


 その中身は酒精アルコール分の強い焼酎であった。

 どうも、近ごろ薩摩さつま辺りで作られるようになった物らしく、水手が取り合っていたのを宗三郎が興味本意で買い取ったのだ。


 まぁ宗三郎は一口、口に含んだ物を吹き出してから一切嗜んでいないが。

 新城は瓢箪から焼酎をラッパ飲みにすると、ふーと息を吐きつつ呟く。


「まぁ、アンタのお陰で俺は生き長らえて、こうして酒まで飲んでいる。……何より、また、日本の土を踏めた。――例え時世じせいは異なるとも」


 そう言って新城は、瓢箪からすっかり空になった碗に酒を注ぎ、五分ほど口に含むと宗三郎に突き出す。


「アンタには感謝してるんだ。

 飯を食わせて貰い、着物や諸々の品を農民から買い取って、俺に寄越してもくれた。

 本当に世話になりっぱなしだ

 陸軍中尉としての俺では無く、一人の新城雅義しんじょうまさよしという男として礼を言う」


 新城はそう言って深々と頭を下げる。

 宗三郎はそれを見やりつつ、新城から受け取った椀を――顔をしかめつつではあるが――一息に飲み干した。


「ゲホッゲホッッ……ゴホン。命を救われたのはこちらも同じ。むしろ、私もお主が居なければあの山中で首にされていただろうよ。

 私も、河野宗三郎道房こうのそうざぶろうみちふさとしてお主に感謝しておる。

 ……だから、お互い様だ」


 宗三郎は涙目で咳をしながらそう言う。


「そうか……。

 でもアンタを助けたのも、刀を振るう者の影が松明に照らされて見えててっきり、日本軍の将校が襲われていると思ったからなんだが……

 まぁ、アンタがそう言うならこの件は貸し借り無し。それでいいな?」


 新城の言葉に、宗三郎は黙って肯いた。


「――と、これで俺達の間柄の端緒は付いた。ここらで一つ、お互いの状況を把握しとこうじゃないか」


 そう、新城は切り出すと宗三郎も頷くと、


「……ああ、私もお主には色々と尋ねてみたい事がある」


と言って、宗三郎は胡座のまま身を乗り出すのだった。


 舟が目的地に辿り着くまでには、まだ時がかかる。二人は充分に互いの身の上を語る事が出来るだろう。


 ――――出逢う筈の無かった男達。


 彼等はこうして数奇な出会いを果たし、歩む筈の無かった道を共に歩み始めたのだった。

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