第23話 新月の夜

 こちらから迎えるまでもなく、その白い兎は、瀬戸大橋の彼方から静かに姿を見せた。

 孤独な島から歩んでくる彼女に対し、明依は四つの国を背に佇む。

 ——その夜に、月は無い。

 此方の時代に終止符を打つような新月。

 緑を終わらせ、くれないへと染色を始める一頁。

 そして、彼女の心を模したような憂き暮夜。

 だからこそ、この日、この場所に、彼女は訪れると確信した。

「——酷く、久しぶりな気がするわね。日音ちゃん」

 一ヶ月近く、彼女と顔を合わせる事はなかった。

 言いたいことも、訊きたいことも、明依の中には山程ある。

 それでも、いま口にするべき言葉は、一つしか浮かばなかった。

「——帰ろ、日音ちゃん」

 懐かしい——すれ違った日の思い出。

 けれどあの時とは、何もかもが違う。

 夜空は満天の星々が埋め尽くし、滲んだ世界で泣きじゃくる少女は——もう居ない。

 清々しいほどによく晴れた夜だが、唯一月だけが、闇へとかげっている。

 の人から譲って貰った真紅のまなこも、今では闇の中だ。

 深淵の中で、その兎はひっそりと唄う。

「ごめん……明依ちゃん。私は、もうそっちには戻れないし、戻りたくない」

 突き付けられる悲しい願い。

 野太い痛みが、心臓を射抜く。

 締め付けられる、まだ幼い心の戸。

 されど、兎は強かに破顔わらう。

「——ねぇ、明依ちゃん。神子が本当に願いを叶えられるなら、こんな馬鹿げた矛盾も、簡単に正せると思わない?」

「……………。何が言いたいの……」

「——正すことが出来ないから、叶えることも出来ない。だって神子は、人の願いの結晶。彼らから矛盾をったら、何も残らない。だから神子は、対局する二つの矛盾を正せない。正せば何もかもを相殺してしまうから。けどね、神子になった時、私は決めたの——」

 夜の闇を請けて、蘇芳すおう色に染まった瞳が虚ろに光る。

「どんな願いも、祈りも、期待にだって成就こたえるって——」

「————ッ⁈」

 旋風が舞う。

 日音の全身を包み込むように、荒々しく飛沫上がる寒波。

「だから災禍も平和も、私が叶えてあげる……っ‼︎ そしてあの子の願いを——‼︎」

 瞬く間に姿を変える、兎の風格。

 瞳孔は獅子のように唸り、凍える闇夜を戦慄させる。

「——きっと、あの子が願ったのは、神子の先にあるはずだった、普通の女の子としての未来なのよ。この御役目を終えた後の、私達の日常。だからそのために、貴女を止める。私が人として終わるために、虐殺なんて許さない——‼︎」

 枝垂れ落ちる鎖。

 静かな換装と共に、その白馬は突風を巻いた。

 迎えて振りかぶられる氷輪。

 月球の弧をかたどった扇が、真っ青にたける。





 提灯ちょうちんの灯りが街並みを彩り、幾重にも乱立する屋台が、祭事を謳う。

「らっしゃい——っ‼︎」

「ママ〜‼︎ ボクあれやりたいっ‼︎」

 華やかな衣を身に纏い、真っ赤なリンゴあめが艶やかに光る。

 大神奉還により終わりを迎えた神代。

 再び訪れた人の時代を祝い、彼らはこの秋最後の讃美歌を奏でる。

 幸福と平和に満ちた——理想郷。

 朗らかに笑う子供達に、大人達は微笑む。

 夜空を埋める無数の花火は星々の輝きさえも凌駕する。

「ユウキ〜? もうどこ行ってたのよ。そっちには花火上がって無いわよ?」

「……なんかね。青い花火がキラキラ〜って……ほら——」

「——え?」

 理想された夢世界を、薄藍の嵐が灼き祓う。

 瀬戸内海から一直線に延びる蒼炎。

 生きとし生けるもの全てを氷結させ、築き上げられた文化を瞬く間に解体する。

 闇を賑わっていた四国が、瞬く一瞬の間に極寒へと換わった。

 無論、源であった大湖など、とうに結晶化している。

 浅葱色に艶めく、薄氷の皮膜。その表面を、一匹の白兎が直立する。

 二振りの扇を構え、疾走する一頭に目を凝らす。

 それは雷光か流星か——。

 絶唱する氷河の譜面を、白き天馬が駆け回る。

 二つの鎖は尾を引くようにたなびき、凍てつく海面を軽やかに踏み越える。

 急冷される扇子。

 舞を振り、凍える旋風を、周回する一頭へと撃ち放つ。

 吹き荒れる蒼い炎。

 白馬はこれを鮮やかに躱し、虚空の闇へと姿を消す。

 音速にかそけく真っ白な輪郭が、停止した暗闇と戯れる。

 闇を惑う兎の眼。

 の一頭は、まさにその刹那に臨場した。

 振り下ろした銀箔に、されど兎は順応する。

 迎えて指し込まれる一振りに、叫喚する銀鉱と雪氷。

 冷寒な衝撃音が、寂れた闇を一閃する。

 懐を探り、四足獣のように沈み込む白馬の重心。

 これをすみ取る玉兎ぎょくと

 僅かに開いた間合いから、展開した羽根扇が弧を描く。

 しかし純白は宙を還り、氷の羽は虚無へと落ちる。

 旋回する白い躯体。

 再び鉄塊を撃ち出したが、写り込む自身に目を瞠る。

 兎の身を包む袴。その全集を浮遊していた神境の一つが、これを弾いたのだ。

 鏡面には亀裂一つ入ってはいない。

 再度振りかざされる羽根扇。

 白馬は一度後退し、再び闇の中へと姿を消す。

 疾風する不可視の白体。

 朱殷しゅあんに染まった瞳が時空を穿ち、不動の兎へと真っ向から蹴り掛かる。

 流石の玉兎も、これには虚をつかれた。

 握られた杭を飾りとし、洗練された肉体での刺突。

 衝撃波は渦を巻き、小さな月の化身を、瀬戸の彼方へと吹き飛ばした。

 罅破れる氷海。

 ほとばしる亀裂——それを遥かに凌駕する怒涛の疾風が、薄氷の上を目まぐるしく駆け巡る。

 絶え間のない騎馬の突進に、翻弄される白兎。

 青白い軌跡が宙空に刻まれ、綾を描く。

 兎の羽根がこれを幾度となく弾き、飛散する絶対零度の火花に、大気が悲鳴を奏でる。

 だが兎とて馬鹿ではなかった。無限の連鎖網に、彼女は雷星の軌道を捉える。

 白馬が兎の背後へと差し迫った瞬間、玉兎の羽根が大きくひるがえった。

 閃光する月光。

 黄金こがね色の極光が互いの刹那を貫通し、のちに続く蒼炎は、凍てついた海を崩落させる。

 氷解する海の恩恵。

 地底一◯五メートルを落下する二頭の神獣。

 許されたたった五秒の須臾しゅゆ——神獣ケモノ同士の死闘が、惑星ほしいかりを超越する。

 崩れ落ちる氷塊を踏み台に、突風を巻く電光石火。

 迎え撃つ兎は二振りの扇でこれを射止める。

 追突する雷星は絶えず、空白の海を駆け抜けた。

 滞空する氷壁へ軌跡を引く玉兎。

 彼方へと吹き飛ぶその月輪を、天馬はのべつ幕なしに追随する。

 走行速度は崩落する氷河をも超越。

 さながら、時間が逆行したような情景。

 次元を超越した光速に、刻限が停止する。

 電光を散らし、落石を迅雷する姿は、もはや夜鳥に近い。

 朔夜さくやを貫くぬえは、差し詰めときの叛逆者。

 氷晶を踏み抜き、氷河に聳える月の美貌へ、正面から先駆する。

 砕き破られる氷壁。

 貫通した両者は、足元を流れる青い瓦礫へと漂着した。

 摩擦係数はほとんど無いに等しい。

 滑走する氷面で、幾度となく打ち合う逆鱗。

 合唱する雷星と月球。

 青白い火花が瀬戸内を飾り、共に崩壊させる。

 指し込まれた扇の僅かな隙を潜り、刺突を打ちこむ雷獣。

 急降下する兎は砕氷を流離い、追走する天雷が気流に逆らう。

 刻まれる刹那の空白。——それを討ち祓ったのは、真っ白な吹雪だった。

 引力に囚われる塵芥ちりあくたの全てを、極寒の颶風ぐふう炮烙ほうらくする。

 瀬戸内を埋め尽くす、炎の寒波。

 月の姿は遥か彼方へと遠のき、差し迫った雷星が氷河の激流に煽がれる。

 海底を踏み、跳躍しようとした雷鳥の刹那を、更なる白群が追撃する。

 水平を引く月輪。

 冷却される天地の境で、白き夜鳥が惑う。

 急制動の繰り返しに、もはや彼女の靭帯じんたいは限界に達している。

 四肢の先はかじかみ、筋肉は硬直する。

 傷口から流れる血が凍りつき、体内温度は低下。

 薄れゆく意識の中でも、されどなお、迷走する雷鳥は静かに唸る。

 氷点下を航空する、白亜の美相。

 氷面を滑走する月下の仮象へ、凍結した火箭が降り注ぐ。

 そして躍動する迅雷。

 迎える兎は粉雪を舞い、氷晶を散りばめる。

 結露する火花。

 咲き誇る樹氷。

 雪の深山を逍遙さまよい、極寒の幽谷ゆうこくで舞い踊る。

 鵺は天に聳え、兎がこれを指し祓う。

 互い違いに旋回する両者。

 玉兎の羽根は大きく逸れ、星空の渦中に、黄金こがね色の大輪を重ねる。

 新月の夜に咲く、存在しない氷輪。

 渦巻く星を仰ぎ、二振りのひづめがおもむろにさえずる。

 途端、天宙を張り巡る銀の鎖が、突如として出現——可視化した。

「————ッ⁈」

 驚嘆する玉兎。

 結ばれた氷雪。その全てが月の災いを四方八方から抑圧する。

「——っ——小癪こしゃくだよ——ッ‼︎」

 咆哮する青嵐。

 同じくして、砕氷による分厚い白煙が、瀬戸内を陥没させる。

 立ち込める煙幕の中、霧を祓って先出したのは、——遠星明依。

 熾烈に吹雪く渦潮を射抜き、僅か五秒の戦禍を経て、瀬戸大橋の路面へと躍動する。


『 ——満天まんてんっ‼︎ 』


 握っていた杭を左右に展開し、繋がれた鎖を手に、明依は暗示を唱えた。

 連動して、数多の星を散りばめた天文が、明依の脚元で陣を組む。

 遅れて臨場する、月岡日音。

 同じくして、彼女はかざした扇を交差し、夜を歌う。


『 暮来月くれこづき 降りて積もれる 永き夜は る人さへや 思ひ消ゆらむ 』


 冷却される羽根扇。

 循環する吹雪は結合し、旋転し、やがて臨界へと至る。

 過ぎし氷期が再現され、在りし冬季を投影し、未だ知りえぬ晩冬が集束する。

 戴天する晩年の蓄積年数。


『 月詠神歌十二番——ッ‼︎ 』


 吹き荒れる、氷河の極限。

 膨れ上がる神々の究極に、互いの最後が拮抗する。

 その僅かな瞬間に、各々の脳内時間は静かに逆行していた。

 まるでアルバムをめくるように、溢れ出していく六年間。

 生まれて間もない頃から同じ時を過ごし、ずっと同じいおりの下で暮らしてきた。

 肌寒い雨の日も、雷に怯えた暗い夜も、三人で支え合って生きて来た。

 しょうもない事で笑い合って、くだらない事で幾度となく泣き合って——。

 何があったって、決して離れる事なんてなかった。

 これから先もずっと、この幸せが続くと思っていた。

 続いて欲しいと願っていた。

 だけど、その切望は叶わなかった。

 おかえりを言ってあげられる日は、もう絶対に訪れない。

 ただいまを言ったって、何も返ってきてはくれない。

 そこでようやく悟った。

 この世界に、神は居ない。

 私達の存在は偶像で、とっくに錆びついている。

 誰かの願いにこたえられるのは、奴隷をいて他にないのだと——。

 思い出と共に、そんな悲嘆がおぼろげにこぼれる。

 闇を覆う十二の天文。

 光はやがて雷槌いかづちとなり、瀬戸大橋の白璧を駆け抜ける。

 それが満ちるのに、もはや一刻の猶予もない。

 閃光していた記憶を拭い去り、日音はついに、その災害を、かつて愛した友人へと放つ。


『 天華てんか—— 』


 ——刹那、星が満ちる。


『 琥徹こてつ—— 』


 天文の中から創造される、神秘の幻獣。

 神々しく光り輝く身体が闇を祓い、帯電する一角は天に哮る。

 頭蓋は龍をかたどり、四肢には天馬の蹄。

 華々しく燃える五色絢爛の背毛は、この凍える漆黒に仄かな熱を灯した。

 己が存在を証明するように、の幻は天を目指していななく。


『 須佐之男すさのお——っ‼︎ 』


 展開される銀河のころも

 高く大きく——白衣の翼が夜空を埋める。

 其はやがて彗星となり、底知れない闇をさかのぼる。

 眩い星芒せいぼうが秒針を刻み、奈落の彼方へと羽撃はばたく。

 迎える兎はほとばしる雪風に哭き叫び、白化した激情を咆哮した。


『 龗峰れいほう————ッ‼︎ 』


 真っ白に凍りついた、山峰さんぽう慟哭どうこく

 橋路をけずり、巻き上がる瓦礫さえ我がモノとする龍の仮象が、災禍のとぐろを巻く。

 ——だが悲しいかな。もう彼女をたてまつる者は誰一人として居なかった。

 途端に弾ける神子の羽衣。

「——え——」

 もはや白き嵐は呼吸を失い、奔流をくぐり抜けた星の一角に目を灼かれる。

 出鱈目に霧散する白雪。

 散乱する無数の羽が星々をかたどり、かつては神であった少女へと襲い掛かった。

 刹那に写ったのは、互いの涙のみ——。

 けれど、その僅かな心残りすら調伏ちょうぶくし、白き彗星は澄み渡る。

 衝突する星芒。

 まだ小さき乙女の身体を容赦なく叩き伏せ、——ね上げる。

 諸共大破する白い橋梁きょうりょう

 音速すら凌駕する怒涛の衝撃に、瓦解した文明が隆起する。

 光は瓦礫の渦を貫き、幼き女児を巻き込んで天へと上昇。

 その靭帯を無造作に捻じ曲げながら、新月の夜を回遊した。

 黒い空にあしらわれる、星の衣。

 やがてそれは果ての彼方で弾け飛び、超新星となって散華した。



 黒煙が昇る瀬戸内の地底。水は干上がり、かつてあったはずの恵みは、今はもう昔の話。

 月明かりのない真っ暗な世界に嘆く小さな女の子。

 天上の大橋はその原型を忘却し、繋がれていた孤島は断絶された。

 あらゆるものから途絶した、宇宙のような虚空。そんな奈落にも等しい世界を転がる、二つの花びら。少女は、乾いてしまった小さな手で、その欠片をそっと拾い上げた。




 事実上、彼女達は、もうこの世には居ない。

 生き残った神子達は政府の支配下に置かれ、以降、禍津神の出現は途絶えた。

 曰く、鎌倉陥落を機に、誰も禍いを願わなくなったと言う。

 道理と言えば道理だが、相変わらずその無責任さ、身勝手さには呆れざるを得ない。

 けれど人は、そんな矛盾の中で生きることを宿業付けられた。

 少女もまた、様々な運命モノを背負って生きていく、

 それは罪だったり罰だったり、——あるいは、願いだったり。

 形式は様々だが、それでも彼女は、自分の矛盾と生きる向き合う事を決めた。

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