第21話 瀬戸内の戦い

 ひたひたと散歩する、一匹の子兎さん。

 ゆらゆらの耳は折れ曲がり、人の言葉には聴く耳なんて持ちません。


「 う、ゔあァ——ッ‼︎ や、やめ——ッ‼︎」


 ふわふわの手足は、鞠玉のように、ポンポンと、地面を跳ねて行く。


「 謝る‼︎ 謝るって——ッ‼︎ お願いだから——ッ‼︎」


 けれど、兎さんは寂しがり屋さんです。

 暗い夜なので尚の事。光を求めて、街へと繰り出します。

 するとそこには、沢山の蝶々達が、とても賑やかに飛び回っていました。

 大喜びの兎さん。あまりにも侘しいので、混ぜてもらいました。

 赤い鱗粉を振り撒く不思議な蝶々さん。

 宙を跳ねる姿があまりにも面白いので、つい触ってみたくなりました。


 えいっ!


「 や、やめ——ッ‼︎ 」


 えいっ!


「 いやアァ——ッ‼︎ 」


 えいっ!


「 た、助けて——ッ‼︎ 」


 えいっ!


「 頼む‼︎ 頼むから殺さないで——ッ‼︎ 」


 つんつんと叩くたび、真っ赤なお花が咲きました。

 つい夢中になってしまう兎さん。

 月の弧を描くように、蝶の群れの中を廻っていきます。


 ——でも、突然降り出した雨に兎さんも落ち込んでしまいます。


 赤い赤い、生暖かい雨。

 せっかくの星空が台無しです。

 真っ暗な夜を彩る、満点の星空。




 御月様だって、今宵は立派な下弦の三日月です。




 報告を聞いたのは、徳島に戻って来てすぐのことだった。

「——日音が……朝陽神社を取り壊そうとした役所の人たちを、——皆殺しにした」

「——————。…………は?」


 ——香川県・観音寺市・高屋町・朝陽神社を中心とした半径約四〇〇メートルに及び、巨大な氷壁と氷柱が出現。その場にいた土木作業員を含める百十三名が即死した。


「——奉献返上後に神秘を使えるのは御三家だけだよ。けどキミは東京に行っていてアリバイがあった。おまけに過去の戦闘記録から、技の系統が同じであったことを踏まえて、日音の名前が容疑者として上がった……」

 娘の大罪を、自ら語る鐘貞さんは、酷く辛そうだった。

 声にならない声を、必死に絞り出すかのような——痛ましい言葉だった。


 その後も、月岡日音の虐殺は続き、彼女による横領と略奪が四国一帯で流行した。

 そして——。


『——速報です‼︎ 四国周辺に突如として巨大な氷壁が出現‼︎ 一帯を取り囲むように、本州からの一切の連絡を途絶しています‼︎ 強行に及んだのは、元神子である月岡日音であり、彼女本人から声明を出しています‼︎ 発表によりますと、月岡日音らが率いる旧大社軍は、四国の民衆を人質にし、辞官納地の撤回と奉献の回帰。そして、朝陽晴葵の名誉回復を要求しているもよう‼︎』


 略奪した軍資金から、同じ思いを持つ元神子の子達と共に武装した月岡日音は、四国を完全に統一した。

 これに対し、国は自衛隊や米軍を派遣。

 氷壁の外側に包囲網を敷き、月岡一派への降伏を呼び掛けた。

 しかし、当然ながらこれを月岡日音が潔しとするはずもなく、睨み合いは二日も続いた。

 私は、彼女を止めるべく、この二日の間に神子の装束を纏って臨場した。

 でも——。

「——遠星明依です‼︎ 月岡日音はどちらに?」

「あぁ〜。月岡さんなら、同じ大社幕臣の子達を連れて瀬戸大橋に向かったわよ? 新政府が日音様の呼び掛けに前向きでない以上、もう武力をもって天下を覆すしかないとか……」

「…………?」

「香川県・宇多津市から延びる瀬戸大橋。そして、愛媛県・今治いまばり市の来島海峡大橋くるしまかいきょうおおはしにて、陸上を進む敵軍を迎撃するって。あなたも御三家なら今治の方をお願いするわね!」

 天下を覆す——その力強い単語に、国家の存亡が予感された。

 この国の全てを敵に回してでも、旧友の名誉と尊厳を取り戻す覚悟が月岡日音にはある。

 たった一つのために、ほか全てを蔑ろにする気概——。

 けれど、人とはそういうものなのだろうと、思えてしまった。

 祖国を護るために争うことも——。

 自身の尊厳を肯定するために他者を貶めることも——。

 愛する者を護るため独善を貫くことも——。

 正義を成すために、悪を凌駕することも——。

 至極当然の理であり、相反するこの矛盾こそ、人を人たらしめているのではないか——。

「…………。かのんちゃん……」

 親友の悲痛な決断に、曇る真紅のまなこ

 せめて話し合うことくらいはしたかった。

 始まりは同じ場所で、ずっと一緒に戦ってきたのに——。

「どうして、こんなにも遠くなってしまったの……」

 愛媛県・今治市——。

 封鎖された来島海峡大橋の上で真っ黒な天蓋を仰ぎ、見えない月を追う明依。

 潮風に煽られ悠然とはためく濡羽色の長い髪は、宛てもなく流離う花びらのように——。

 一番叶えたかった願いは水泡になってしまったけれど、あの日確かに託された願いは、今もこの瞳の中に宿っているから——。












 神聖一五二年 十月十日早朝——。


「——月岡さんっ‼︎」

「神子を相手にするともなれば、当然そうなるよね……」



「——国際連合艦隊っ⁈」


 国際連合指揮下のもと構成された常任理事国主要五カ国と日本による連合艦隊。これが壁の氷海と共に瀬戸内海を制圧。これにより〈瀬戸内の戦い〉が起こった。


 明依は来島海峡大橋に上がり、月岡一派の牽制に準じていた。

「誰も殺してはなりません‼︎ このままでは神子という存在そのものに汚名が付きます‼︎」

 凛々しく果断な声明。

 しかし、それも虚しく、甘美な歌声が瀬戸内の大海に奏でられる。


『 七夜月 天つ隔てば ものぞ思ふ 花よ滅さむ あまの火もがも 』


 灼熱に照らされる我らが海の地。

 赤く染まった景色に、思わず天を仰ぎ見るは万人。

 正しくそれは〝わざわい〟であった。

 叢雲を貫き、緩慢とくだる劫火の巨石。激しく燃え盛りながら、大地を穿たんと落下する。


『 ——月詠神歌七番 火雷ほのいかづち 』


 極寒に沈むうたが告げる、災禍の雷雨。おびただしいほどの稲妻を四方にばら撒き、海を射抜く。

「退避——ッ‼︎ 退避——ッ‼︎」

 艦砲射撃が放たれる前に、その悉くが沈没する。

 鋼鉄の船艇は呆気なく塵と化し、天威の重みに耐え切れなくなった海が波濤はとうを上げる。

 立ち込める白煙と霧に、辺り一体に霞が掛かる。

 しかし、連合も用意周到。彼らにとっても、神子による総反撃は想定内だったようだ。

 霞の中を掻い潜り、百を超える軍勢が、目下の海から瀬戸大橋の路面へと舞い降りる。

 青白い光の線が悠々と光る面妖な軍服。数十メートルという高度を物ともせずに跳んだ様から、日音はその正体を暴き出す。

「——パワードスーツ? またつまらない物を造りましたね……」

 彼女の問いに対し、返って来たのは無作法にも榴弾の嵐。苛烈な轟音と共に散らされる緋色の花火。

 日音は瞬時にして大輪を咲かせ、これを余さず防ぐ。——そして返礼として、二振りの羽根扇を勢いよく薙ぎ払った。

 瞬き半ばほどにも満たないごく僅かな一瞬——。

 凍える寒気が疾風の如く路面を駆け抜け、一帯は瞬く間に氷結。青く鋭い氷河のあぎとが、連立する人体を目掛けて真っ逆さまに萌芽ほうがした。

 容赦なく穿たれる、脆弱ぜいじゃくな肉塊。

 地表から延びる幾ばくもの氷柱つららが、一瞬にして朱へと染まる。

 その極めて悲惨な墓標を、されど冷徹な眼で蔑視べっしする日音。

 こぼれる吐息は霜を帯び、周囲の空気を凍らせる。

 しかし、鮮やかな断面を残し、届かなかった氷刃が一つだけ——。

「………………」

 されど日音は、依然として冷静だった。想定内とでも言うかのように、白い吹雪の中を覗き込む。

 かすみが僅かに薄まると、目の先には、刀を構えた男が凜然とした佇まいで直立していた。国際連合軍・陸上第一部隊長・乃木希義のぎまれよし——。

「——驚きました。まさかそんな時代遅れな戦術で挑むなんて……」

「その時代遅れな玩具おもちゃに、御自慢の広範囲攻撃を斬られた気分はどうだい? 月岡……。銃は撃つ事に特化した攻撃重視の武器だが、日本刀コイツは実態のあるモンなら大概は斬れる。斬ってしまえば、キミの攻撃だって水泡だよ」

「………………」

 円らな日音の瞳が、忌々しげにくゆる。

「——けど、それで日音に勝てることには、ならないですよね……」

「やはりまだ子供……。発言がまだまだ幼稚だよ。勝つという事は、私がキミに勝つ事であるとは限らない。よもや、我々の目的を忘れたわけではないだろう? 月岡の娘——」

「————っ⁈」

 見上げた蒼空には、三隻もの飛行船が帆翔はんしょうしていた。

「民間人への被害も考慮し、爆撃などの過激な策は取れなかったが、これだけでも充分に君たちを打倒出来る」

「侮られたものですね、日音たちも……」

「キミの天文は広範囲による攻撃が多く、それ故に味方を巻き込む危険性を伴っている。更に、それを近距離で発動した際、自身が巻き込まれる可能性もね。だからこそ、我々は近接での対局を決めた。キミのその絶対的なアドバンテージを、徹底封殺するために——」

「………………」

 冷たい汗が、白雪の肌を伝う。

 御三家の利点は、その知名度と蔭位によって、多くの祈願、期待が寄せられ強い神聖を得られること。デメリットは、それ故に司っている神秘の情報が漏れやすいこと——。

 我を落ち着かせるように、ゆっくりと瞼を閉じて、冷たい息を吐く日音——。再び目を開いた時、右手に握っていた羽根扇をその場から消滅させた。

「貴様……ッ‼︎ この上我らを愚弄する気か——っ‼︎」

 戦場に於いて不敬を働く日音に対し、憤慨を来たすつわものども。

 しかし、日音は決して、相手をあなどっている訳ではない。

 凍えるほど蒼い——絶対零度の瞳が、迎える志士達を威圧する。

「————ッ‼︎ おのれ月岡アアァァッッ‼︎」

 並列する群れの中心に居た人物がまさにいま刀を抜かんとしたその瞬間、真っ白な雪が、突風となって吹雪いた。

 渦を巻く大気。

 張り詰めた空間を射抜き、その兎は真っ直ぐに跳んだ。

「な——ッ⁈」

 そのあまりの速さに、人の目が追いつけるはずもなく——。

 抜刀を待たずして、その柄を握る男の右手首に、羽根の閉じたおうぎが逆さまに噛み付いた。

「ぐ——ッ‼︎」

 すかさず、穂先から手首の内側へと回し込まれる扇。

 刹那にして——されど男にとっては時間が停止ししたような感覚。

 男の懐へと入り込んだ扇の先を掴み、日音の腕が勢いよく左右に広げられる。

 然り——交錯していた男の右腕も振り払われ、気がつけば左腰に差していたはずの刀が消失——否、目前の女に奪われた。

「(払いと同時に引き抜かれたのか——ッ⁈)」

 蒼白した相貌で、我に帰る男——。視線を上げた時には既に、日音は奪い取った刀を、果断に振り被っていた。

「————⁈」

 斜線を引く鋼の一閃——。

 鋭い刃が男の左首に無遠慮にのめり込む——。

 信じ難い現実に、その場にいた全てもの人たちが呆然とした。

「き、斬った……斬りやがった…………。神子が人にそむきやがった……。は、ははは‼︎ これで証明されたな……‼︎ 神子も禍いと同じってことがよ‼︎」

 白い白い——ふわりと潤う雪のような肌に、鮮血がにじむ。そんな醜悪たる白雪姫を前に男たちは大層ご満悦にほくそ笑んだ。

 けれど雪女郎は、その笑みの奥に眠る、どこか歪曲した心を見通してしまう。

「——本当は、子供神子を否定すること、心の何処かでは後ろめたかったんでしょ? 禍いが自分達の願いから生まれていること、認めたくなかったんだよね?」

 ポタリと鋒からしたたる赤い蜜。その中で潮風に煽られ舞い踊る、赤味を帯びた白亜の衣。繻子のように鮮麗だが、今ではそんな美しさなど、容易く霞むほど不気味に思えた。

「どうしても自分たちを正当化したくて——日音を倒さなくちゃ行けないのに、日音が今この人を殺したこと、心の底から嬉しがってる。自分達の正義がより証明できるから——。どれだけ正しくても、悪が居ないと絶対に成り立たない偽善——。日音は、そんなあなた達の矛盾が、吐き気をもよおすほど、大っっっっっっっっっっっ嫌い————ッ‼︎」

 疾駆する憤怒の兎。

 真っ赤な瞳孔を炎のように燃やし、唖然とする武士達に斬り掛かる。

「知るか——ッ‼︎」

 迎えて振り下ろされる一撃に、全くの素人である日音の刃は容易く四散する。

「藤四郎が——ッ‼︎」

 無惨に弾け飛ぶ鋼の輪郭。

 続く水平斬りに、しかし日音は地面を踏み込み飛び込んだ。

「な——ッ‼︎」

 自ら命を投げ打つような彼女の愚行へ、思わず虚をつかれる男。——一瞬、その剣尖が僅かに鈍った。狩られる側であっても、兎はその隙を決して逃さない。

 極限まで間合いを詰め、刀を握る彼の腕に、再び扇を突き立てる。

「————ッ‼︎」

 寸分僅かにこれを弾き、行き場を失ったその右腕を自身の右脇の下へと左手で誘導——。流れ任せにその躯体を倒し込み、扇子の羽根を解放する。

 一閃——。

 男の首を右傍らから斬り裂いた。

「がアァ——ッ‼︎」

 二人目を殺害した白雪へ、すかさず斬り込む武士達。

 真っ向から降る一撃を、日音は軸足を半回転させ、二寸五分という僅かな間合いを外し回避。男の背面を筋交すじがいに割る。

 振り返った先で待ち受ける槍の穂。白く潤う雪の心臓を真っ直ぐに捉えたはずだったが、兎の姿はまたもや二寸五分外れてしまう。

 脇の下を素通りし、日音は、それを柄ごと挟み込み静止させる。同じくして背後からの敵意を逸早く察知した彼女は、槍を引き、使い手の首根っこを掴んで転がした。

「しま——ッ‼︎」

 槍兵は奇襲を狙った後方の仲間と正面から衝突。奇しくもその穂先が、待ち受ける彼を貫いてしまった。

「ぐふ——ッ‼︎」

「い、いや……ちが……これは——」

 同朋を殺傷し、罪に駆られる彼を、されど日音は蹴り倒す。

 槍兵の脇腹を奔る、重く鋭い衝撃——。神秘の理不尽が、彼に踏み止まる猶予を与えるはずも無く、その大きな肉体を海の向こうへと一直線に撃ち放った。

 大の大人の人体が、十二歳の少女に蹴られ弾丸のように吹っ飛んでいく現実——。

 青眼に構えられていた刀が、いつの間にかうつむき始めた。

 気づけば、いつしか最愛の友人に褒められた純白の髪は、今や混濁とした朱庵しゅあん色——。その穢れを浄化するように、氾濫を始める蒼い炎。日音は、未だ鎮まり切らぬ憎しみを、氷解する災いと共に吐き出す。

「——自分たちが日音達を願ったくせに……っ‼︎ 自分たちで日音達に祈ったくせに……っ‼︎ 不都合が起きれば害意とさげすみ、失望して……っ‼︎ 日音達だって、日音達なりに頑張って努力してたのにっ……少しでも理想と異なれば悪者扱いっ‼︎ もういい加減にしてよ‼︎ 日音達は、お前達の道具じゃないっ‼︎ 日音達は、お前達の神様じゃない‼︎」

 おもむろに溶け出していく、白雪のみぞれ。滴り落ちるその雫は、洪水を始めた炎と共に、大橋一帯を徐々に凍らせていく。

 白い髪には霜が宿り、白い肌は、次第に紫紺色へと変色する。

 背負い込んでしまった荷物の重みに耐えきれず、どうしようもなく泣きじゃくるその様は、まさしく少女のそれだ。

 けれど乃木は無情にも、その姿に軽蔑の目を向ける。

「——甘ったれるなよクソガキが……」

 信じ難いほど無慈悲な発言——。

 日音は撤回を請うように——その猶予を与えるように、ゆっくりと表をあげた。

 しかし、乃木の冷め切った目は依然として変化を見せてはくれなかった。

「——神であろうと、人間であろうと——この社会は、他人の願い期待えられなければ、信用と、そして人脈を失うんだよ。キミ達神子が、私達からの奉献で生かされていた以上、キミ達はその御恩に報いなければならなかったんだ。奉献をたまわる。——その神子として与えられた権利は、預かった願いを成就させるという義務を果たして初めて成立する。人々の義務願いを放棄した分際で、権利奉献のみを主張するなど、我儘わがままも甚だしいと思わないかい?」

「————————。…………………。——————は……?」

 期待に応えるため、恩義に報いるためなら、誰がどうなっても良いって言うの——?

 義務を果たすためなら、人が人として扱われなくなることも当然だと言うの——?

 はるちゃんが殺されたのも——。

 大崎さんが死んじゃったのも——。

 自分という個の形を、他人の願いに依存して変化させろと——?

「——勝手に願ったのはそっちでしょ……。それなのに……それなのに——っ‼︎」

 震え上がる青嵐。

 煮え滾る泥濘——その一切が、この薄暮を一緒くたに凍結させる。

「そんな理不尽があるから——ッ‼︎」

 今まさしく、青嵐の厄災が顕現せんと、凍てつく旋風が吹き荒れたその刹那——。

「————ッ⁈」

 神子の装束が消し飛んだ。

 全てが幻だったかと思えるほど虚しく、呆気なく、そして泡沫に散った。

「な……なんで……どうして——⁈」

「そりゃあそうなるでしょう。君たちを神子たらしていたのは私たち人間の願いだ。だが、今となっては、もはや君たちに祈願する者など誰一人としていない。奉献が返上されてもなお、君たちが神秘を行使できたのは、御三家として積み重ねた功徳があったからだよ。だからこそ、その年月分の見返りは約束されていた。しかし、これだけ大規模かつ私欲に任せて神秘を使ったんだ。身に余る奇跡を貪れば、相応の報いを受けるのは世の理だろ? ——消えな子兎。もう此処に、キミを崇める者は一人もいないよ」

 圧倒的なまでの倦怠感に見舞われ、立ち上がる術を失った少女へ、透明な息を吐く男。

 色を持たない空虚な瞳で、空っぽになった張子を忌まわしげにさげすんだ。その明らかなる悪意が、伽藍堂がらんどうであったはずの器に、沸騰した泥水を注ぎ込む。

 蒼く鈍い、氷河の溶岩。

 湧き上がってしまった真っ青な煉獄に、少女の瞳孔が張り裂ける。

 足元に落ちていた刀を拾い上げ、彼女は地表を踏み抜いた。

乃木のぎ希義まれよしイイイイイイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィィィィィ————ッッ‼︎」

 怒りと、憎しみと、——積年の恨みを込めた青い怒号を放ち、一直線に吹雪く幼き体。可憐な雪華の姿はえる突風を巻き、身に余るであろう剣尖を真っ直ぐに突き放った。

「子兎が——ッ‼︎」

 盛んな苛立ちを見せながら、これを右手で掴み取る乃木。防刃式の手套しゅとうが、捕えた鋼を容易く粉砕する。

 見るも無惨に四散する備前の芸術。

 白い衝撃波が瀬戸大橋を覆う中、のべつ幕無しに穿たれる鉄拳。——両者共に、互いの顔面へ渾身の一撃を叩き込んだ。

 反発し、発散し、互い違いに吹っ飛ぶ乃木と日音。背面から大橋の鉄柵へとぶち当たり、白煙を巻き上げる。

 全身を駆け巡る痛みと痺れに歯を食いしばり、額から流れる血に、瞳をくゆらせる。

 だが先刻の殴打に手応えはない。

 日音は右傍らを転がる鉄の破片へ、すかさず手を伸ばした。——刹那、その雪の白肌を、同じく鋼鉄の輪郭が貫く。

 脇差——っ⁈

 噴流する血飛沫の中、振り向いた前方からは、嬉々として殴り掛かってくる乃木の姿が鮮烈に映り込む。さながらその姿、獲物を捉えた鷲の如き——。

 次の瞬間、打ち出された彼の右拳に、青白い氷柱が突き刺さる。

 噴出する鮮血——。

 痛みよりも先に、乃木は驚きに駆られた。

「(天文——⁈ なぜ——⁈)」

 依然として、その張子に、神秘の装束は見られない。

 白いもこもこが特徴のショート丈フェザーニットプルオーバーに、淡い水色をした膝丈プリーツスカート。——もっとも、今では泥と血で汚れてしまっているが、いずれにせよなんの変哲もない小学生だ。

 開きっ放しの瞳孔で、忌まわしき害悪を仰ぐ日音。

 互いに一息ほどの空白を彷徨うも、先手を引いたのは日音だった。

 未だ痺れ続ける体を無理矢理起こし、血塗れの右手を握り込む。

 迎える乃木。

 互いに振りかぶられる剛拳。

 拮抗する——最後の真空。

 閃光する両者の間合い。

 けたたましく響き渡る轟音の中、茜色の大輪がこの青き時空を砕き破った。

 熱戦を帯びた突風が波紋を広げ、のちには真っ黒な噴煙が猛々しく昇る。

 爆風と共にその中心部から投げ出される日音。路面すれすれを真っ直ぐ滑空し、海へと落ちる寸前で間一髪踏み止まる。

「はぁ…はぁ…はぁ…っ‼︎」

 朱に塗れた形相で、黒煙の向こうを見据えると、そこから自身よりも酷い姿で出てくる男が居た。

 体の至る箇所に数穴が空き、出血は致死量だ。

 足元に血溜まりが出来るほどの量——意識を保っているのが不思議なほどだ。

「——手榴弾なんて……一体どこからくすねたんだい……」

 回答を期待しない独白。

 案に違わず、日音に答える意思はない。

 やがて長州側の援軍が訪れ、夕焼けを飛行するヘリコプターから、複数人もの武士達が降り立ってしまう。——それも、先程までとは気配の差に天と地ほどの差が見受けられる。

「乃木藩長‼︎ ご無事ですか‼︎」

「どうだか……」

「なんでぇ〜。まだ生きてやがったんですかい。乃木さんはシブとくてイケねぇや」

「あァ⁈ お前それどう言う意味だ‼︎ おい‼︎」

「叫ぶ元気があるなら大丈夫そうですね。さぁ、早く撤退を——」

「いや、まだだ……」

 仲間達の提案へ、逆説を運び込む乃木。彼が見る視線の先を、藩士達は誘われるように俯瞰した。

「——なるほど。承知致しました。では即刻、殺処分致しましょう」

 白い子兎へ向けられた黒鉄色の口腔が、夕陽に照らされ鮮やかに唸る。

 回転式の高速連射機関銃。その圧倒的脅威に、思わず絶句する日音。

「(——ミニガンッ⁈)」

 咄嗟だった。

 あれだけは、今の状態では敵わぬと悟り、気がつけばその白い幼体を冷たい海の底へと放り投げていた。

「……ふん、哀れな子兎よ。奉献の賜りを失っても、親友の願いを叶えるため、自ら神に堕ちるとは——。もっとも、神は神でも、貴女は禍津神のようですが……」

 女は銃を下ろし、海底へと沈んでいく少女を静かに見下した。



 日は暮れ、夜の闇がうつつを覆うとき——。

 国際連合軍により拘束され、護送車へと乗せられる鐘貞。

 しかし、彼はどこか爽やかな面持ちで、車内へと乗り込む。

 疲弊した背中は草臥くたびれているようにも見えるが、責任を全うした偉人のようでもあった。そんな枯葉のような彼の後を必死に追うものが居た。

「——鐘貞さん!」

「お前! この期に及んでまだ——ッ‼︎」

 立ちはだかる兵士達に止められながらも、懸命にもがき抗う少女。当然、大人の膂力に敵うはずもなく、地に伏せられ征圧されてしまう。——それでも、彼女は諦めず、最後に伝えるべき言葉を、精一杯の声で届けた。

「——ありがとうございました! 今まで、私のみならず、沢山の神子を支えてくださり、長い間、この国を——延いては私達の家を守って下さっていました! 例え世論がなんと言おうと、鐘貞さんは私達にとって、立派なお父さんです‼︎ これまで、二十二年もの間、お勤めご苦労様でした‼︎」

 小さな体から飛び出したあまりの声量に、思わず息を呑む薩摩藩士たち。

 鐘貞も、最初は何やら驚いたように肩を跳ね上げたが、それも一瞬——。重い荷物でも下ろすかのように、ゆっくり下げると、こちらを見やった。

「——明依も、お疲れさま。どうかこれからは、誰かの願いではなく、自分の願いの為に生きて欲しい。結局、我を通せない人間は、いつまでも人の下だから。そこで何かを成すことが出来ない場合、非難されるのはキミ達だ。だからどうか、そうならぬように——」

 等々護送車へと入っていく鐘貞。空っぽになってしまったその背中は、僅かながらに、それでもやはり確かに、寂しげな姿をしていた。それは志半ばで折れてしまったことへの悔しさか、——あるいは、娘を憂う父としての悲壮か。

 行く宛も知らず走り去っていく空虚な箱へ、明依は凍えるつゆを滲ませた。

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