第17話 禍いへの期待

 ——片瀬東浜海岸。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

 由比ヶ浜海岸から漂着した明依。

 海に沈み込んだ禍津の衝撃波に、海面の水位も上昇し、潮の流れが変動。

 こんな所にまで流されてしまったわけなのだが——。

「(……日が沈む……。晴葵は……大丈夫かな……)」

 荒ぶる呼吸を鎮めつつ、身内の安否を案ずる明依。

 傾いた陽射しに目を配せ、亜麻色の砂に身を委ねる。

 最中に添えられる、銀色の月影。

「——明依ちゃんっ!」

 只事ただごとではない様子で駆け寄って来たのは、日音だ。

「かのんちゃん……」

 足場の悪い砂浜を懸命に走っている。

 見ていて、初めて走り出したうさぎを見ているようだった。

 ——微笑ましい。

 嬉しそうに、それでも少し困ったように、明依の頬が和らぐ。

 まったく。そんな急ぐと転ぶわよ?

 ——転んだ。

 思いっきり転んだ。顔面から一直線に。寸分の予兆すら見せず華麗に。

 一瞬、虚を向く明依。

 砂に埋まった白い美貌が持ち上がると、遠くの星と見つめ合って高らかに笑い合う。

 理屈は不明だが、何かがおかしかった。

 いや、あるいは、この何気ない日々が楽しいからかも知れない。

 不明瞭だけど、その意味のない穏やかな日常が、愛おしいのだ。

 けれど、青天の霹靂の如く、状況は深刻化する。

「——日音っ‼︎ 大崎とか言う明依の班員が禍津と戦闘して重症なんだ‼︎ 早く手当を‼︎」

 飛来した陽炎に、月面がくすぶる。

「大崎さん——っ⁈」

 絶句する明依の傍らで、日音はすぐさまおうぎを握った。


『 菖蒲月あやめづき 花橘はなたちばなの 風香り うれうる恋に いと思ひせく 』


 翡翠色の光が淡い旋風を巻き、大崎の体をいたわるように包み込む。


『 月詠神歌五番 皐月不動さつきふどう旱天かんてん慈雨じう 』


 やがて光は固体と化し、宝石となって彼女を封じた。

 その内殻ないかくを張り巡る小さな水滴が、傷口へと滴るたび、少女の肉体と同調していく。

 新たな細胞となり、骨となり、皮膚となる。

「ちょっと…時間は掛かっちゃうけど……半日も経てば、後遺症もなく治ってると…思う……」

「それまでこのまま放置? 固体化してるけど、どうやって宿まで運ぶん?」

「……明依ちゃんの鎖で……引くしか……」

「それまで私、ずっと神子服で居ないといけないの——っ⁈」

「明依ちゃん……、ファイトっ!」

「いやそんなたくましい眼差しで言われても、他人事だからね日音ちゃんっ⁈」

 今後の予定を話し合うも、おかしな会話をしているのは安堵の証。

 戦いは終わり、犠牲者もなく、神子の活躍は美談で終わる——はずだった。

 斜陽のそらを、一隻いっせき熒惑けいわくが貫く。

 震える大地。

 噴煙を上げ、立ち込める砂塵が海を覆う。

 招かれざる客の不躾ぶしつけな臨場に、太陽の化身はその光を曇らせた。

 ——いや、あるいは、その輝きが退しりぞいたのか。

 柄と鯉口に手をかけ、煙の向こうを強く見据える晴葵。

 真っ赤に光る、星の化身。——いや、あれはもはや惑星の神霊に近い。

 次第に煙幕は凪ぎ、の赤茶けた表皮が、この青き星の表面に映し出される。

 ——男だ。

 四肢を持ち、頭を備えた——紛れもない人間の輪郭。

 けれど、それは明らかに我々とは異なる存在。

 灰色に濁った髪はすみを思わせ、くれないに煌めく眼孔が黄昏の空をも焼き焦がす。

 到底人の域にある生命モノではない。

「なに……アイツ……っ⁈」

 明依の背筋を、凍てつく稲妻が逆撫でる。

 花音もまた同様だ。

 ただならぬ気配に気圧され、同時にその真偽悪夢を確かめんと、必死に目を凝らした。

 故に硬直する身体。

 その最中を、石火の流星が一閃する。

 瞬きをした時には既に、目前には土煙しかなかった。

 人知れず、時空と同化する赤虹せきこう。標的に絞ったのは翡翠の結晶だ。

 だがこれを、万有を照らす旭日きょくじつ一瞥いちべつする。


『 日出暁天 旭日天照あさひてんしょう——っ‼︎ 』


 天翔ける炎の片翼が、透過する火種に引火した。

 真っ二つに斬り離される、異人の右拳。

 一瞬、彼は虚を突かれたような空白を見せたが、すぐさま後退。三十間ばかりの距離をとって、目前の赤い少女へ口の端を吊り上げた。

「——見事だ」

 枝分かれした右腕は、さながら磁石のように結合し、復元する。

 残留する血を舐め取り、再び微笑む男。

 ——一見した時から予感はしたが、今の彼の動きで確信した。

 目の前の男は、人間ではない。紛れもなくその禍々しさは——。

 しかし、それにしては——。

「(再生が速すぎる。そもそも、今まで戦って来たどの禍津にも復元能力などなかった。加えて、なまりを感じさせない自然な会話能力。独自の言語体系を確立しているんだ)」

 どこか友好的に微笑わらう男を、されど晴葵は敵意に満ちた形相で睨み付ける。

 当然だ。

 あちらが瀕死の大崎を狙った以上、神子としては相容れぬ——。

 それでも、対話が可能であるのなら——。

「(明依も日音も消耗している。オレ自身も長くは闘えない。ここは——)」

 肩幅に開いていた晴葵の足が、首幅にまで縮む。

「——どこの者とは存じ上げないが、オレも三人も消耗してる。ここで別けてくれると、ありがたい」

「では街の人間を鏖殺おうさつする。神子が禍津神まがつかみに降伏するとは、そういうことだろう?」

 晴葵の目が見開く。

 驚いた理由は二つ。

 まず一つ目は、悩む素振りも見せずに即答したことだ。

 これにはただ純粋に、その決断力の速さに驚かされただけだ。

 しかし、正直これだけならば、顔に出るほどの驚愕にはなるまい。

 何よりの理由は二つ目——。

「(禍津——〝神〟⁈)」

 馬鹿な。こんな醜悪な、災害の化身とも言える連中が〝神〟だと——⁈

 認められぬ事実に、神格としての自尊心が奮い立つ。

 けれど、奴が神であるにしろ無いにしろ、——その眼に嘘は無かった。

 ここで祓わなければ、アレは災害となって人に仇なす。

 ——せめて応援が来るまでの時間を稼ぐしか、他に道はない。

「——神と言ったか? 神が人を脅かしていいはずがない。オレ達人類にそむこうと言うのなら、今の発言は撤回しろ。それは、オレ達や他の神様を冒涜する発言だ」

 柄を握る力を強め、緋色の瞳が、溶岩の如く荒ぶる。

 けれど男は、その沸騰する猛火に臆する事はおろか、むしろ軽快に笑っている。

「酷い思い違いだな。俺たち神が、人の願いによって生かされている事を忘れたか?」

「〝俺達〟?」

 考えたくもない事実に、晴葵の相貌が、珍しく恐怖を宿した。

 だが残酷にも、現実はその悪夢を容赦なく叩きつける。

「—— そう。戦争が失くなり、この世界には真の平和が訪れた。誰も死ぬことなく、誰も脅かされる事のない世界。戦禍に居た人間たちは、ようやくして齎された安寧に涙した。だが、何一つ変化なく、刺激のないその毎日は、新世代の人間にとっては酷く退屈だった。無聊ぶりょうした人間共は願ってしまった。


   ——主人公になりたい。


物語の主人公には、倒すべき宿敵が必要であろう? 故に連中は人理を打倒し得る禍いを期待した。そうして生み出されたのが、わざわいの神、——〝禍津神〟だ。もう気づいているはずだ。アレは、人の数が多い場所に出現することを。その密度が濃ければ濃い程、より強力な禍いをむ。それ即ち、人の思念によって生み出されているからに他ならない」」

 凍りつき——されど焼け付くような侵蝕が、全身を走る。

 しかし、明依自身も不審に思っていた。

 何故突然、日常が破滅したのか——。そこだけが、不明瞭なままだった。

 けれど、願いが神子を生むなら、同じように禍いだって——。

 澱んでいく思考の中で、男の言葉が次々と、その沼の底をあらわにしていく。

 明依と日音は、たちまち突きつけられる真実に、ただ空白を刻むことしか出来なかった。

「—— だが人間とは身勝手なものよ。自身で解決し得ない禍いが齎されれば、今度はまた再び、平和を望む。己が悪性によって羽化した禍津神をほうむる掃除屋。自身の退屈を満たすためだけに人間共が生んだ究極の奴隷。それが、お前たち〝神子〟の正体だ。この世界が、ただ楽しくあれと願って生み出された存在。要は都合の良い玩具おもちゃなんだよ。俺もお前達も」」

 明依の脳裏に過ぎったのは、かつて遊園地で目にした人々の笑顔。神子が闘うことで、それを護ることが出来るのなら、どれだけ傷付こうとも耐えられた。

 けれど、あの笑顔も全て、彼らが神子を利用する事で生んだもの。

 まつっていたのではなく、神子となる少女達を〝呪う〟ことで得た愉悦ゆえつ

 明依の大義が、徐々に崩壊を見せていく。

「——ならば、人間を殺せば、お前は存在出来なくなることもまた然りだろ」

「それがアイツらの願いであり、同時に奴らによって侮辱された、達の意志だからな。俺達でもてあそぶ人間共を皆殺しにする。所詮は醜悪な人間共によって創られた仮初めの命だ。奴らを滅ぼし消えるのなら悔いはない。——むしろ本望だ」

 依然として、軽薄な笑みを続ける男。晴葵の質疑を、淀みのない声で貫く。

 恐ろしいほどの執念だ。己が滅んでもなお人の願いを叶え、また同時にこころざしを全うする。

 対して明依はどうか——。

 人の願いに左右され、代々続いてきた思想のもと禍いを絶つ——借り物の戦意。

 あの男に挑むことさえ、不敬であると悟る。

「——————」

 もはや、明依の希望は絶たれた。

「——そうか」

 瞼を伏せて、珍しく冷たい息をこぼす晴葵。

 彼を肯定するような物言いに、明依の顔が上がる。

 信頼にすがる眼差しで、されど晴葵の真意を疑う。

 案の定、晴葵は——。

「——だがどうやら、お前とオレの大義名分は異なるようだ」

「なに?」

「願いを叶えるため——そこは共通しているが、受けた侮辱へ仇討ちしようなど笑止千万。オレは元より、民の為になんぞ闘っちゃいない」

「え?」

 頓狂な声を漏らしたのは明依だ。

 疑いの目が、更に鈍くすさむ。

 けれど——。

「オレは、大切な家族のために刀を振るうと決めた。明依や日音と、これから先の未来を生きていく為に、禍津神との戦いに決着を着ける」

「————っ⁈」

 緋色はうるみ、洗礼されるようにして、かつてのかがやきを取り戻す。

 瑞々みずみずしく、鮮明に光る茜色。

 幼き頃の色を忘れ、今や目前の太陽を依代よりしろに彩られる。

 男自身も、視線の先で神々しく燃ゆる熱に、好奇的な目を光らせた。

「そうかお前……御三家か」

「——いかにも。朝陽家筆頭、朝陽晴葵だ」

「俺はいくさの神格化、火狩かがり。あさひ、同じ星の名を持つ者同士、禍津神子になる気はないか? 星は元より、ヒトに災害を齎らしてこそ天上であろう? 俺達を遊び道具とする奴らに、粛清を与えてやろうとは思わないのか?」

「思わない。——もう一度言うが、オレはこの世界で、明依や日音と共に暮らすと決めた。だからその為に闘う。禍いの魔物に堕ちるなど、愚の骨頂だ」

「…………………。そうか」

 男——火狩の笑みが消える。

 見窄みすぼらしいモノを観るような、冷めた瞳が、照りつける斜陽を凍らせる。

 直後、そのあかき星の土台が、亜麻のうすを踏み砕いた。

 僅かに舞い上がる砂塵。——さながらそれが星屑のように明滅する。


『 ——熒禍斂望けいかれんもう・帝国・巌榴がんりゅう加農かのん 』


 星屑はやがて互いに結び線を成し、円形の天文を刻み込む。

 輝く火の惑星だが、その壇上では、彼は武の達人であった。

 拮抗する恒星と惑星でも、——今この場は銀河ではなく一つの闘技場。

 火狩の口の端が、微かに燃え上がる。

「——では祈願の成就を執行する」

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