第5話 朝の喧騒

 暗闇に射し込んだ一筋の光を頼りに、ゆっくりと瞼を開ける。

 やや霞んだ視界へ、真っ先に飛び込んで来たのは、少女二人の寝顔。

 穏やかな寝息を立てて、気持ち良さそうに眠っている。

 外からはヒヨドリやガビチョウなどの小動物が意気揚々と歌謡している。

 海沿いである鳴門市ならではの小鳥達。——今となっては聴き慣れたさえずりだ。

 煩わしさなど微塵もなく、明依の意識は余裕をみせる。

 時刻はとうに午前八時を回っている。本来ならば朦朧とした意識はその時点で覚醒し、急いで支度を始めるであろうが、——今日は土曜日だ。

 僅かに開いたカーテンを閉じて、再び眠りに戻る。

 昨日の疲労がまだ抜けきっていない。

 せめてお昼時くらいまでは、平凡な夢心地を味合わせて欲しいものだ。

 残留する睡魔に卒倒し、吸い込まれるように意識を落とす。

 それはさながら、深海へと潜水していくような明暗の最中。

 幸せな時間はすぐそこだ。

 ようやくして全ての光が遮断される。

 ——途端、少女の細やかな安寧は、容赦なく却下された。

「——————」

 此度旋律を刻んだのは、小動物でもなければ虫ですらない。

 均一のとれた機械的な鐘の音。

 無駄に大きく、つしつこい電子音。

 ゆっくりだった音は、次第に速くなり、まるでこちらを急かしてくるようだ。

 ——不愉快。

 ただでさえ機械の音——というか、電気関連を嫌っている明依にとっては、嫌がらせと言っていいほどに、速まるこの音色が不快だった。

 無視していればやがて諦めるだろうと高をくくっていた明依。

 しかし、相手のあまりの根気強さに反して、明依はどうやら短気であった。

 連続する電子音にいい加減我慢の限界が到来し、その体を玄関へといざなった。

「…………なによ、土曜日の朝っぱらから………」

 絶え間なく続く音響。先よりもさらに速まる。

「(……せっかちね……それほど急ぐ事なんてないでしょうに……)」

 そうして、外履に履き替え、扉の鍵を開けようとしたまさにその直後——。

 客人の声が、扉を容易くすり抜けた。

「あはぁ〜‼︎ お留守ぅ〜⁈ みんなのアイドル、月岡鐘貞だぜぇ〜っ‼︎」

 咄嗟的瞬間——。

 まだ半分夢の中に居た明依の意識だったが、電流が走ったかのように覚醒。——同時に、虫唾むしずと鳥肌が明依の全身を駆け巡った。

 瞬時にして扉の鍵を閉め直し、チェーンまでしっかりとかける。

「えっ⁈ ちょっ‼︎ 今鍵かけなかった⁈ なんでっ⁈」

 扉の向こうで、軽薄な舌を捲し立てる鐘貞。ドアノブを断続的に微動させるも、明依はその進行を決して許しはしない。

 全体重を乗せてドアノブの動きを止める明依。

 甘く淑やかな声を、ただならぬ形相で家中へと響き渡らせた。

「ハルちゃん‼︎ 日音ちゃん‼︎ 塩よ‼︎ 塩を持って来て‼︎」

「えッ⁈ ちょっ酷くない⁈ 傷ついちゃうなぁ……‼︎ 傷ついちゃおっかなアアァァッ‼︎」

 朝っぱらから非常にわざとらしい阿鼻叫喚を放つ鐘貞。騒音とも言える大音声だいおんじょうつつしみや加減なんてものは一切放棄し、ただ欲望のまま高らかに反響させ、大社の恥を惜しみなく晒して行く。——※彼は大社の代表、神威大将軍です。

 麗らかな朝霧の扉は、彼の無作法なノックによって遥か遠くへと吹っ飛んでいき、はかなきその夢を追うように、陽気な歌声をあげていた鳥達もまた無限の彼方へ羽ばたいていった。

 突如——そして理不尽に消し去られた春の温度は、事件の予感さえ周囲にいだかせ、この上ないとびっきりの迷惑をありったけに振り撒いた。

 だが此処に、そんな喧騒をも容易く凌駕して余りあるほどの不気味な経典を、完全に仕上がってしまった形相で唱える者が居た。

南無喝囉怛那なむからたんのう 哆羅夜耶とらやーやー 南無阿唎耶なむおりやー 婆盧羯帝ぼりょきーちい 爍鉗囉耶しふらーやー——」

 爛々と目を血走らせた明依が、目前の醜悪を全力で拒む。

「なんで大悲心陀羅尼だいひしんだらに——ッ⁈ ボク忌み物扱い⁈ ホントに泣くよ⁈」

菩提薩埵婆耶ふじさとぼーやー 摩訶薩埵婆耶もこさとぼーやー 摩訶迦盧尼迦耶もーこーきゃーるにきゃーやー えん 薩皤囉罰曳さーはらはーえい 數怛那怛寫しゅーとんのうとんしゃー——」

 未だ続く詠唱の中、ようやく目を覚ました晴葵が、まだ少し眠たげに目を擦りながらも悠然な姿を見せた。

「…………何やってんだよ、明依」

「ハルちゃん! 塩は! 霊符は⁈ 千手千眼せんじゅせんがん観世音かんぜんおん菩薩ぼさつ様の銅像は——⁈」

「あるかンなモン‼︎」

 明依の奇行ボケに寝起きながら華麗なツッコミを返す晴葵。呆れたように、腰に手を置く。

「鐘貞さんだろ? どうして入れてやらないんだよ……」

 しかし、明依の強行は収まらず、血の通った形相で可憐な喉を張り上げる。

「甘いわ晴葵! 私達神子の聖域に穢れの侵入は何人も許されないのよ!」

「うひゃああああああああああ——ッ‼︎ 泣いちゃうぞオオ‼︎ 泣いちゃったアアァァッ‼︎」

 明依の辛辣すぎる物言いに、童心を忘れられない大きな子供がついに喚き散らかした。

 一線を隔てる扉の向こうで、甲高く吠える狂犬。

 どう足掻いても我慢することが出来ず、人の機嫌を損ねるよう周到に鳴き叫ぶ。

 例えるなら、野犬の遠吠えや、ゴミ袋を漁るネコのソレに近い鬱陶しさ。

 何事にも寛容な晴葵でさえ、若干の苛立ちを覚えた。

「近所迷惑だから入れてやれ!」


 ––––三十分後。


「…………………………」

 凍える冷気が支配する神子の聖域(笑)。

 大事なことなのでもう一度言おう。

 凍える冷気が支配する神子の聖域(笑)。

 非常に気まずい空気が、密室に漂っているのだ。

「さすがにアレは酷いよ明依ちゃん……。ボクのことそんなに嫌い?」

「嫌いです。蛇蝎だかつよりも遥かに……」

 何の躊躇も遠慮もなく不敬な解答を返す明依。昨夜の件をまるで憶えていない愚かさに、鐘貞は何とも形容し難い素朴な表情を浮かべた。

 深淵へと沈み込む、鐘貞の面相。

「はいそうですか……。昨日折り返すって言うから夜分遅くまでずっと待っていたボクの良心が嫌いですか、そうですか……」

「…………………あ、」

 どうやら思い出したようだ。

 そう、明依は昨夜、鐘貞からの電話を「かけ直す」と言って一方的に切断した。それをまんまと忘れていた頃、鐘貞は律儀に待ち続けていたらしい。

 直後、明依の体が高らかに宙を舞う。

 華麗なまでの回転を見せると、そのまま地面へとひたいを擦り付けた。

「本っっっ当にッ‼︎ 申し訳御座いませんでしたアァッ——‼︎」

 見事なまでの跳躍土下座が、深々と大地に刻まれる。

 降り降ろされた後頭部に、鐘貞の相貌は通常を取り戻す。

「あっはははは! いいっていいって! そこまで気にしてないから〜。君達が無事ならそれでいいんだよ!」

 陽気な笑いを見せる鐘貞。その優しい言葉に、明依の心も不思議と温まる。

 彼のいつも通りの軽薄さが、ここまでの安心感をもたらしたのは初めてだ。

「——それで? 結局問題は解決したの?」

「ええ……まぁ~」

「それは良かった!」

 無邪気な笑みを浮かべる鐘貞。ふところから何かを取り出し始めた。

「君たちは昨日も大活躍だったからね~。そんな子供達にはご褒美がなくちゃねっ!」

 勢いよく、彼の胸の内から取り出されたのは、華やかに彩色された三枚のチケット。

「じゃっじゃぁ~んっ‼︎ ドリームランドのフリーパス‼︎ これを君達に差し上げようっ‼︎」

「そんな、大変な御無礼を働いた後で頂けませんよ‼︎」

「よっしゃあ〜っ‼︎ 遊び尽くすぜぇ‼︎」

 謙虚な遠慮を見せる明依に比べて、晴葵は大層嬉しそうに跳び上がった。

「ちょっとハルっ‼︎ はしたないわよ!」

「そんな事言って〜、明依だってホントは行きたいだろう? 鐘貞さん相手に、ご大層な敬語使っちゃってよ〜」

「そんな訳ないでしょ! 私は鐘貞さんを誤解していただけで……。私達を心から案じて下さっているんだもの、当然じゃないっ!」

「へぇ〜そぉ〜。じゃあ明依は行かなくていいよ。オレと日音の二人で行ってくるから。——でもそうだな〜、せっかく三枚チケットがあるんだし、他にもクラスの誰か誘うか。日音、誰か誘いたい奴居るか?」

「……え、えぇ……っ⁈ いや、その……日音は……」

 突然のお尋ねに困惑する日音。

 盛んに目を泳がせていると、鐘貞が父として乗っかり始める。

 相変わらずの軽薄な笑みで、お茶目にも人差し指を立てて——。

「そういえば、僕と日音って、あんまり遊んだ事なかったよね! せっかくの機会だし、お父さんも行っていいかな?」

「えぇっ⁈」

 日音の顔が歪む。

 この父親、なんて空気が読めないのか——。

 友達との娯楽に親が入るほど、気まずく、苦痛なものはない。

 だがどうやら、晴葵はそれを分かっていたようだ。

「いやいや、流石に女子小学生に大人一人が混じるのはなぁ〜。——とりあえず、オレが仲のいい奴探してみるよ!」

 それ、全校生徒を指すのでは?

 楽しそうに、知りうる限りの顔を脳内に思い浮かべる晴葵。

 だが、そんな愉快な光景を、明依は断って置きながらも、何やら不服そうに眺めていた。

 やがて、その不満が抑えきれなくなったのか、——彼女は突然と声を荒げる。

「もうっ‼︎ 私抜きで楽しそうな話しないでよっ‼︎」

 頬を淡い紅色に染めて、苦虫でも噛み潰したかのような表情を向ける明依。

 甘美な声音を鋭く響かせた。

「いやだって、明依は行きたくないんだろ?」

「だ、誰も行きたくないとは行ってないわ!」

「じゃ〜、行きたいの?」

 挑発的な目で煽動してくる晴葵。

 この上なく意地悪な笑みで、顔を真っ赤に染める明依の瞳を覗き込んだ。

「ほれほれ〜、言わなきゃ分かんないぞ〜?」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ‼︎」

 しかし、一向に口をつぐみ続ける明依に、晴葵はついに嘆息。踵を返した。

「あっそ〜。じゃあやっぱり、オレと日音で行くしかないみたいだなぁ〜。あー残念残念」

 次の瞬間、離れゆく晴葵の裾を、明依はそっと掴み取った。

 嘲笑する晴葵。

 煽り散らすような瞳で、明依を見下ろす。

「ん〜? 何かな〜? め〜いちゃ〜ん?」

「わ、わたしも……行きたい……」

「んん〜⁈ 声が小さくて良く聞こえないなぁ〜? 悪いけど〜、もっかい言ってくれるぅ〜?」

 耳に手を添えて、分かりきった言葉を再度尋ねる晴葵。

 直後、その鼓膜へ凄まじい轟音が叩き込まれる。

「私も一緒に連れて行きなさいよこのバカアアァァ——ッッ‼︎」

「ゔぁッ‼︎」

 あまりの叫声に、転げ落ちる晴葵。

 甘い美声が、鋭利な一刺しとなって耳を貫通した。

 わざとらしい断末魔を叫び散らし、しばし床の上でのたうち回る金翅鳥こんじちょう

「耳が——耳がァアアアァァァァ——ッ‼︎」

 その様子を俯瞰ふかんしながら、明依は荒ぶる呼吸の中で、沸騰した薄紅の感情を噛み締める。

「もうっ‼︎ ハルちゃんの馬鹿っ‼︎ 鬼畜っ‼︎ 意地悪っ‼︎」

 浴びせられた罵詈雑言。——しかし、晴葵はあっけらかんと笑って見せる。

「あっはははは‼︎ 悪りぃ悪りぃ‼︎ まぁ、オレも明依と日音の三人で行きたいからな! たとえ本当に明依が嫌って言っても、あの手この手を使って意地でも引っ張り出してたさ! オレ達の日常は、一人でも欠けたらダメだからな。明依と日音は、オレにとってこの世で一番大切な家族なんだからよ」

 どうしてそんな恥ずかしい台詞を平然と吐けるのか——。

 晴葵の言葉は本当に嬉しいが、それでも明依は、しばらく羞恥に浸ったのであった。

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