第3話 希望への期待

 —— 徳島県・鳴門なると市にある小さな学校。

 海と緑、そして、穏やかな空気に包まれた、本土から少し孤立した街。

 空気は澄んでおり、のびのびと暮らせる環境には、都会のような窮屈さは感じない。

 そんな自然豊かな街並みを味わいながら、ひたひたと登校する三女。

 校門が見えてくると、ようやく同族の姿が現れ始めた。

 明依らと同じ制服を纏った児童。

 元気な挨拶が近所に響き渡る。

 門を潜る小学生らは、佇む教員に朗らかな笑顔を向けていた。

 子供達の元気な姿に、先生達も笑みを返す。

 ここまでは至って普通の光景だ。

 だが、明依達が校門に差し掛かると——。


『——親方‼︎』


 幾重にも束ねられた声が、こちらへと向けられた。

 子供達の視点はただ一人、赤い髪の少女に焦点を合わせている。

 ——晴葵だ。

「おはようございます! 親方!」

 止めどなく放たれる敬意の嵐を、晴葵はものともせずに笑顔ではね返す。

「おう! お前らのその呼び方も相変わらずだな!」

 晴葵は全く気に留めていないようだが、日音は違ったらしく——。

 未だ慣れない様子で、困ったように呟いた。

「……この光景…やっぱり変だよね」

 彼女の意見に、明依も呆れたように肩をすくめた。

「学校じゃないところでやってたら何者よね」

 晴葵がこんな呼ばれ方をされているのにはもちろん理由がある。

 あれは四年前——。

 一年生の頃の、一学期終業式での出来事——。


「はぁ〜あ……寝むい……」

 長々とありきたりで退屈な話をする校長。

 子守唄の如くゆったりとした喋り口調は、体育館に揃う全生徒の睡魔を、どうしようもなくかき立てていた。

 猫背になり、今にでも眠ってしまいそうな風貌で漠然と前だけを見つめる。

 その時だった——。

 突然、耳をつん裂くような鋭い悲鳴が上がったのだ。

 沈みかけていた意識は瞬時にして覚醒し、全神経に電流を流されたような気分だった。

「なにっ——⁈」

 反射的に、声のした方向を振り向く。

 慌ただしく、右往左往する生徒達。その中心には——。

「ハチだ‼︎ スズメバチだ‼︎」

「………………。は?」

 消しゴムほどの大きさで、黄金の身体を誇る危険生物。

 その強力すぎる毒針に、人によっては一撃で命を落とすこともあると言う。

「逃げろォオオオオオオ‼︎」

 背を向けて一心不乱に走り出す児童達。

 突然の出来事に、先生たちも唖然と立ち尽くしてしまっている。

「お、落ち着いて‼︎ 落ち着いて体育館から避難しよう!」

 最初に指示を出したのは校長だった。

 壇上からマイクを使って生徒達を誘導。体育館脇に突っ立っていた教員へ目線を送り、その場の指揮を託す。

 直後、運悪く黒い服を着ていた男の子が、はちの標的になってしまった。

 本来、蜂は敵意のない者へ無作為な攻撃は仕掛けない。

 しかし、今この場には数百人を超える少年少女達が密集していた。

 そこで突然現れる蜂。

 結果は必然——。蜂に恐れ慄いた生徒達は悲鳴を幾重にも重ねて逃げ惑う。その甲高い断末魔が、蜂の神経を逆撫でしたのだ。

「ゔぁああああああぁぁぁぁぁ‼︎ く、来るなァアアアアアアアアッッ‼︎」

 万事休すか——。

 次の瞬間、彼の肩を何者かが掴んだ。

「伏せろ——ッ‼︎」

 逞しい声音と共に、掴まれた手に沈め込まれる少年。

 背後から、真っ赤な髪の少女が勇ましく飛び込んだ。

 少年の頭が下がると同時に、彼の肩を自身の手の踏み台にした彼女。浮上した右足で、襲いかかる蜂を勢いよく蹴り飛ばした。

「ゼアァッ——‼︎」

 見事なまでの身のこなしでそのまま一回転すると、綺麗に着地する。

「晴葵——⁈」

 駆けつける明依に、少女——晴葵は通せんぼするように、左手を差し出す。

「……まだだ。危ないからお前も下がれ!」

「ゔ、ゔぁああああああぁぁぁ‼︎」

 涙目になりながら走り去る少年。

 地面に転がる蜂。

 不穏な空気が漂う中、生徒らの視線はそこに食いついたままだった。

 何かがおかしい。

 蜂の体から、黒いすすのような物があがり始めたのだ。

 次第に濃度を増して行き、刻々と立ち昇る煤煙ばいえん

 突如、異変は起こった。

 金色の体が、不規則な膨張を見せる。まるで沸騰するように——、内側から何かが溢れ出すかのように——。

「やっぱり……コイツは——」

 瞬間、蜂が巨大化——。

 成人男性とほぼ差のない大きさへと変貌を遂げた。

「〝禍津まがつ〟だ‼︎」

 轟く悲鳴。

 逃げ果せる生徒達。

 刹那、激しい突風が体育館の扉を塞いだ。

「ウソッ——⁈」

 退路を絶たれる生徒達。

「ハルちゃん‼︎」

 半ば希望を託すかのように、明依は彼女の名を呼んだ。

 嬉々として微笑む晴葵を、炎の旋風が包み込む。

「任せな——‼︎」

 吹き荒れる炎の中、晴葵の風貌がみるみる姿を変えて行く。

 真紅を基調とした軍装のような装束。

 ボタン付きの正服で上半身を包み、同色のミニ丈スカートが、端麗に磨かれた太ももを優しく覆う。

 左肩には鎧に使われるような大袖が備え付けられ、左腰にも草摺くさずりが下ろされる。どれも三段使用。花柄の模様が刻印されたそれは、艶やかな光沢を放ち、丁寧に研磨されているのが見て取れた。

 腰には草摺の他に二重仕様のバックルが巻き付けられ、左腰に携えられた刀を支える。

 脚部には、黒色のオーバーニーソが精緻な肌を包み込み、脹脛ふくらはぎからつま先にかけては、黒い編み上げ式のブーツ。

 華奢な背中を黒い外套がいとうが覆い、花弁の如くゆらりと舞い踊る。

 最後に、烈火のポニーテールには、手裏剣型の髪飾り、純白のシュシュ、そして、はがねかんざしが飾られた。


 炎が晴れた時、晴葵の姿はまさに神子そのものだった。

 変貌を遂げた太陽へ、威嚇を放つ蜂型の禍津。

 甲高い咆哮が、体育館を鋭く駆け抜ける。

「ゔッ——⁈」

 全員が両耳を塞ぐ中、それがどうしたと言わんばかりに、おもむろに抜刀する晴葵。

 鋭く煌めく茜の刃。半透明に透き通った刀身。先反りの打刀で、全長三尺二寸、刃長は二尺半ほどか。

 棟はなだらかな庵型いおりがただ。

 しのぎから刃への傾斜も緩やかで、優しく燃える炎が脳裏に連想される。

 ほとんど硝子細工のような造形で、そのあまりの神秘的な透明度から、地鉄じがねの様子は、ほとんど窺えない。

 刃紋は揺らめく炎を模したような大湾おおのたれ。

 そんな、奇跡と神秘から空想されたようなきっさきから、神々しくも穏やかな火の粉が、沸騰した溶岩のように巻き上がる。

 熱風が湧き立つ中、晴葵は両足を肩幅ほどに展開。両手に握った刀のきっさきを後方に向けて、右脇腹へと力強く構えた。

 燃え上がる晴葵の闘志。

 昂ぶる鼓動。

 その圧倒的な気迫に焦ったのか、先手を撃たんとばかりに、禍津は真っ向からの突進を仕掛ける。

 雄渾な視線でこれを見据える晴葵。

 迫り来る巨躯きょくを緋色の眼光が捉える。


『 日向暁天ひゅうがきょうてん 』


 ——刹那、疾風が舞う。

 地面を踏み込んだ晴葵の体が、瞬く間に標的の目前へと迫った。

 すれ違う巨星と矮星わいせい

 硝子ような刀身が差し掛かる光を乱反射させ、眩く、——けれど繊麗に瞬く。

 その明滅に視界が眩んだのか、瞬き一瞬にも満たない交差の間、先手を切ったのは巨星ではなく矮星だった。

 禍津のくびへ、真紅の一閃が駆け抜ける——。


『 東雲しののめ——‼︎ 』


 宙を舞う禍津の頭蓋と、斬り離された胴体。

 流星のように先駆した晴葵はやがて静止し、隆々な背中に感じた確かな手応えを信じて振り返る。

 観戦する生徒達の目前で塵となって吹き飛ぶ巨体——。

 一瞬の出来事に、生徒らはただただ茫然と息を呑んだ。

「…………………。す、すごい……」

 標的の消失を確認するなり、晴葵はそっと息を吐き納刀。

 その直後、ようやく彼女の勝利を理解した群衆が、歓喜の声を張り上げた。

「ゔぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ——‼︎」

「スゲェーよ晴葵‼︎」

「マジかよ‼︎ ここで満を辞しての覚醒‼︎ さすがは朝陽家筆頭‼︎」

「俺たちの救世主‼︎ 俺たちの親方‼︎」

 そうして始まった——親方コール。


『お・や・か・た‼︎ お・や・か・た‼︎ お・や・か・た‼︎』


 ——そう、あの時初めて彼女は神子として覚醒した。

 一番最初の行動が、何より皆に期待を持たせたのだ。

 けれど、明依と日音は未だ神格化には至っていない。



 校内に入って一番最初に立ち寄ったのは職員室だった。

「日音ちゃんとハルちゃんは先に行ってていいよ?」

「バーカ。さっき手伝うって言ったろ?」

「……私も」

 二人の頑固な優しさに、明依の頬が緩む。

「……ありがとう」

 そうして、職員室の扉を叩いた。

「失礼しましゅ‼︎」

「(あ、今噛んだ)」

「(明依ちゃん……緊張してる)」

 家では母のような明依でも、学校に来るともう一人の女の子だ。

 遥か年上の教員らが密集する空間には、さすがに身がすくんでしまう。

 けれど、どこか大人びた明依を見て来たからこそ、晴葵と日音には、今の彼女の姿が、とても新鮮で可愛らしく思えた。

「五年三組の遠星明依です! 学級日誌を取りに参りました!」

「あ〜、明依ちゃんおはよう〜。学級日誌ね、えぇ〜っと——」

 応じてくれたのは明依達の担任、小鳥遊たかなし湯愛ゆめ先生だ。

 茶髪の髪をミディアムヘアに下ろし、毛先を緩く巻いている。とても大人っぽい綺麗な女性だ。

「はい。早朝からお疲れ様ね」

「いえ、先生方こそ、お勤めご苦労様です」

 軽く会釈をして職員室を後にする。

 歩き出してすぐ、晴葵が突拍子もなく呟いた。

「小鳥遊先生って、肌めっちゃ綺麗だよな〜。まぁ、明依には負けるけど」

「なによ急に。私を褒めても何も出ないわよ? 子供の方が肌が綺麗なのは当然じゃない」

「いや、そうなんだけどさ。小鳥遊先生はどこか特質してるというか……」

 天井を見上げながら呑気な呟きを見せる晴葵。

 彼女とは逆に、とこを見ていた日音がおもむろに告白した。

「小鳥遊先生、大の温泉愛好家なんだって……」

「「そうなの⁈」」

「…うん。この前も、放課後プリント届けに行ったらね、温泉のパンフレットが机の上に……」

「…へぇ〜」

 驚いた様子を見せる明依。まるで意外だと言わんばかりに目を見開いた。

「にしても、温泉の効力ってマジなんだな……。迷信かと思ってたぜ……」

 晴葵が考え込むように、顎へ指を立てると、日音から深いため息が溢れ出す。

「……気をつけないと、長々と語らされるから……。私、もう既にあの人苦手……」

 もう既に何かトラウマでも植え付けられているように青ざめる日音。

 しかし、彼女は元々他人との交流を苦手としている。その日音がこの程度で済んでいるのなら、そこまで気にすることもあるまい。

「まぁ、持て余した知識ってのは誰かに話したくなるもんだからな」

 教室に辿り着くと、既に半数以上が登校していた。

 様々な会話が右往左往する中、晴葵は明依を見やる。

「明依、他に仕事は?」

 尋ねられ、教室を見渡す明依。

「……えっと、チョークの整理と黒板消しのクリーナー掛け…って、まさかこれも手伝うつもり⁈」

 向けられた問いに、もしやと振り返る。

 そこには、屈託のない笑みでガッツポーズをする晴葵の姿が——。

「おう! もちろん!」

 憎めない優しさ——けれど、誰かの為を思うあまり、すぐに人の仕事を横取りする彼女のやり方を、あまり良いものとも思えず、明依はただただ嘆息した。

「はぁ……ありがと……」

 悪い奴ではないのだが、ここまで干渉されると逆に困る。

 職員室への訪問は一人では心細かった節があるが、今回ばかりは流石に一人でも出来る。

 けれど、誰彼構わず助力するのが、晴葵の長所であるのならば、安易に否定は出来ない。

「まったく……」

 迷うそぶりなど見せず、黒板消しを清掃する彼女の背中に、明依はどこか困ったように微笑んだ。


 茜色に燃える夕陽が終業の音を知らせる中、明依は一人、人気ひとけの途絶えた教室で一人、筆を走らせていた。

「よし!」

 書き終えるなり、荷物をまとめて職員室を目指す。

 今回、あの二人は居ない。

 まだ小学生ゆえ、放課後になれば強制的に帰らされる為だ。

「失礼します!」

 けれど、明依は知っている。

「学級日誌の返却に参りました!」

 あの二人はいつも——。

「失礼しました!」

 明依を待ってくれている。

 返却を終えた明依は一目散に駆け出した。

 足の速さには自信がある。

 二人もそれを分かった上で、彼女が追いつけるであろう速度を維持する。

「日音ちゃん! ハルちゃん!」

 二人の背中は、二十秒間の疾走の末に捉えられた。

「お、さすが速いな」

「五十メートル、七秒台を舐めないことね!」

 莞爾と胸を張る明依。

 小学五年生、それも女子でそのタイムは普通にすごい。

「でも、ハルちゃんも……男の子を圧倒してたよね」

「あぁ〜、男連中は正直どうでもよかったんだよな〜。オレは何より、明依に負けたのが悔しかった」

「男の子達……あれだけハルちゃんには負けられないって気張ってたのに——」

 掘り起こされる、当時の記憶——。

「親方には絶対勝つぞォオオオオオオオ‼︎」

『ヴォオオオオオオオオオオッッ————‼︎』

「テメェーら女に負けたら丸刈りだかんなアアアァァァ‼︎」

『ゔぉヴッッ‼︎』

「これで親方が負けたら親方の名は剥奪だァアアアアアッッ‼︎」

「あぁーうっるさいわァアアアッ‼︎ 黙りなさい男共‼︎」


 ——結局、晴葵に勝てなかったどころか明依にも敗北した彼らは、その後の女子生徒ら全員の強行によって、全員もれなく刈られたのだった。


「まさか相手にもされてなかったなんて……」

「悲しいわね……」

 情け深くなり、半ば芝居じみた様子で涙を拭う日音と明依。

 浮かび上がる光景に、晴葵の頬も引きつった。

「そういや、んな事もあったなぁ……」

 馬鹿馬鹿しくも懐かしい思い出に浸る三人。

 どこからどう見ても普通の小学生だ。

 どこからどう見ても、普通の日常だ。

 平和で、穏やかな——、退屈極まりない普遍的な日々。


 されど突如、黄昏は歪む——。


「——————ッッ⁈」

 微かな——けれど定かに感じた悪しき気配に、本能的に身がひるがえる。

「……………ッ‼︎」

 深く、深く息を呑み、夕焼けの空を仰ぐ。

 歪み出す大気。

 不穏な空気に、引き締まる身体。

 頬を伝う冷ややかな汗。

 高鳴る鼓動。

 緊迫した空気の中、明依が固唾を飲んだその瞬間ときだった。

 茜色の空。沈み掛けていた太陽のちょうど真上の空間が穿孔せんこうしたのだ。

 突如として開いてしまった真っ黒い穴。

 それはみるみる内に膨張、拡大していき、やがて太陽を覆い隠してしまう。

 紫色のが黒点の赤道付近に架かり、まるで一つの巨星のような形を形成する。

 陽光が遮られ、紫紺に染まった世界景色は、何処となく金環日食を思わせる。

 だが、悪夢はこれだけでは止まらず、渦の中心から漆黒の巨躯が顔を出す。

 それが現実の物であるのかを疑い、明依達の瞳孔はただ、審議を測るように、硬直した。

 身の毛もよだつ黒い生命体。

 その体の所々を赤い動脈が通り、三足の巨大なひづめで我らの大地を踏む。

 間違いなく、それは人類史に存在しない生物であり、この世の物ではない。

 人々はこれを——。

「——禍津まがつ⁈」

 街全土に立ちはだかる脅威。

 思わず一歩を退く明依。

 日音も、肩を小刻みに振るわせながら、声にならない驚嘆を漏らしている。

 そんな二人の様子を確認するや否や、先頭に躍り出る晴葵。

 凜然とした出で立ちで、制服のタイを払い取った。

「オレが引き受ける! 二人はまだ未覚醒だし、とりあえず、住民の避難勧告を!」

「……わ、わかったわ! ハルちゃんも気をつけてね‼︎」

 互いを信じ、互いの背中を任せる。

 そして、煌めく炎が、晴葵の身を包み込んだ。


 紫紺の装束が上半身を包み、同色のミニスカートが下半身を覆う。

 左肩から腰へと指をなぞらせ、草摺を下ろす。同時にバックルと刀が備え付けられた。

 大きく蹴り上げる動作で、紅炎を描き、黒色のオーバーニーソとブーツを脚部に装備。

 そして、ハーフマントが背面に飾られると、勇ましく刀を抜いて炎の中から顕現した。


「さてと——ッ‼︎」

 ひとステップのあと、その火炎は疾風の如く大地を駆け抜けた。



「ゔぁああああああああああああああああッッ————‼︎」

 漆黒の装甲に身を包んだ、三足歩行の怪物が、逃げ遅れた男性に襲い掛かる。

 大きな一足が振り上げられ、鋭い爪が男の急所を捉えた——。

 刹那、両者の間を真紅の火柱が駆け抜けた。

 噴き上がる鮮血。

 男性の物ではない。

 宙を舞うのは、真っ黒な装甲だ。

 炎に斬り裂かれたのは言うまでもなく——。

 苦しみ悶えるように、縦横無尽にのたうち回る怪物。

 状況の急変に追いつけず、放心する男性。彼の前に、一人の少女が立ちはだかった。

 真っ赤な髪をアップヘアに纏め上げた神子。

 真紅の刀身を構え、黒い外套が花弁の如く揺れる。

「無事だな! なら早く神社に駆け込め!」

「あ、ありがとう‼︎」

 男性がその場から立ち去った後、ようやく禍津の体が起き上がった。

 振り返り、その巨体を燃え盛る瞳で真っ直ぐに見据える。

 向けられた眼光を忌まわしみ、睨み返す禍津。

 刹那、その視界から彼女の姿が消えた。

 虚空を走る刀身に、真紅の炎がなびく。


『 日向暁天 紅炎の舞——‼︎ 』


 地表を舞う鮮やかな火炎。

 さながら、巨星から舞い上がるプロミネンスの如く——。

 大きく緩やかな円環を地表に描き、禍津の二足を斬り刻んだ。

 地面に落とし込まれる巨体。

 悲鳴をあげる大地が、血飛沫にも等しい土砂を舞いあげる。

 太陽は、煙の中に居るであろう標的を視覚に捉え、間髪入れず肉薄する。

 疾走——。

 瞬く間に詰められる間合いの中で、晴葵は、左脇に忍ばせた刀身を一息に振り上げた。


『 日向暁天 旭日天照あさひてんしょう——‼︎ 』


 煌めく一閃——。

 眩い炎陽が、蒼天目掛けて舞い上がった。

 いびつな血液が捲れ上がり、倒れ込む巨軀。真っ二つに両断された身体がその後動くことはなく、血の雨が降り注ぐ中で晴葵は静かに頬を拭った。

「……明依達は大丈夫かな」



 多くの住民が避難する神社。

 突然の脅威に恐れ、慌てふためく群衆を、二人の少女が統率していた。

「慌てないで! 落ち着いて避難してください! 神社の内側であれば安全ですから!」

 甘く可憐な声は、それでも果敢に、迷える者達を先導していた。

 とにかく今は、御三家である彼女達が皆の前に立ち、統治する必要があった。これ以上被害を拡大させない為にも——。

「あの子達は……御三家の……」

「神子様! あんな化け物、とっととやっつけちゃって下さい‼︎」

 人々の無数の願いが猛るように降りかかる。

 しかし、今の彼女達は——。

「(お願い……ハルちゃん! 戻って来て!)」


「————ッ⁈ 明依?」

 聴こえた訳じゃない。

 だが、確かに感じた——友の嘆き。それは願いを受諾する神子としての能力だろうか。

 その火箭かせんは迷いを見せず、突風を巻いて一直線に走り去っていった。


「明依ちゃん!」

 日音の叫喚に驚き、反射的に身が翻った。

 絶句——。

 神社の周囲を、三足歩行をする歪な怪物が取り囲んでいたのだ。

「そんな……ッ⁈」

 狼狽える群衆。

「嘘だろおい! 神子様! 何とかしてくれよ! 御三家なんだろ⁈」

 無造作に飛び交う怒涛どとうの願い。

 ——けれど、今の明依達に、それを叶えてあげる力はなかった。

 晴葵が現着するまで、どれほど保つかも分からない。そもそも、晴葵が臨場してくれる保証もない。

 正真正銘、万事休すである。

 明依は、遠星家の意地と誇りに懸けて、この場を諌めんと立ち上がった。

「日音ちゃん、これ持ってて」

「明依ちゃん……?」

 スクールバックを日音に託し、明依は震える足を、それでも尚前へと踏み出した。

 鳥居を潜り抜け、戦場へと躍り出る。

 立ちはだかる脅威に、身が硬直する。

 だけど——。

「……覚醒していなくても、わたしには、皆んなの願いを預かる責任がある!」

 果敢に——虚勢を張る明依。

 腰の後ろから、小さな刀を引き抜いた。

「………」

 震える手。

 上手く握れない。

 少し叩かれるだけで落としてしまいそうだ。

「はぁ…はぁ…はぁ…!」

 加速する脈拍。

 荒ぶる鼓動。

 乱れる呼吸。

 けれど、明依はその全てを飲み殺し、小さな刀を構えた。

「——だって私は、遠星明依だからっ!」

 突きつけられた牽制けんせいに、激昂する禍津。群れをなし、一斉に行進を始める。

「危ないっ‼︎」

 届かぬ日音の声。

 地面を踏み込んだ明依は、迫り来る異形へ無謀にも真っ向から挑んだ。

 振り下ろされる巨大な爪へ、右手に握ったナイフを振り切る。

 一線——。

 小さな刀で勝てるはずがない——。誰もがそう思い、遠星明依の死を覚悟した。

 しかし、血飛沫を上げたのは禍津の方だった。

 斬り払った要領で思わず跳躍する明依。のたうち回る禍津をすり抜けて、大地を滑る。

 アスファルトに、その悉くを抉り取られては火花を散らす靴底。——途端に、皮造りの靴が変異。まるで何かを縛り付けるかのように、赤い布が巻き付けられた墨色のブーツへと豹変。優麗に、——どこか薄暗く艶めく。

 慎ましく飾られたその秀麗たる脚線が地面に踏みとどまった刹那——後方から忍び寄る気配を感知し、本能的に飛躍する。

 それはさながら、花びらの如く軽やかに——。

 滞空する花びらの真下を漆黒の爪甲そうこうが走り抜ける——。

 直後、握っていた短刀が碧色のくいような物へと変貌。

 どこか幻想的で、宝石のように煌びやかな細工が神々しく煌めく。

 瞬間、豹変したその刃を真っ逆さまに振り下ろした。

 轟く断末魔——。

 耳をつん裂くような、鋭い奇声が天地に反響する。

「————ッ‼︎」

 激しく暴れ回る禍津に、明依の小さな体は軽々と振り払われてしまった。

「ゔぁッ‼︎」

 滑空しながら身を翻し、間一髪で踏み留まる明依。

 杭が禍津の背部に刺さったままだが、特に焦りはしなかった。なぜなら——。

 瞬間、明依の両手首に、鉄枷てつかせのような腕輪が纏い付く。共に繋がれた白銀の鎖の一方は、未だ禍津に刺さる杭へと連結していた。

 鎖を引導し、勢いよく薙ぎ払う明依。周囲に蔓延る禍津目掛けて、その同朋どうほうを無造作に投げ放った。

 衝突する同族達の群れ。

 地表深くまで沈め込まれ、あまりの衝撃に、噴煙が立ち昇る。

 明依は煙の中から杭を引き戻し、再び自身の手の中へと納める。

 左手にも同じものが握られ、いつの間にやら二刀流になっている。

 鎖は先程の長さを誇っておらず、その造形は、どうやら伸縮自在のようだ。

 そして、煙の中を見据える明依の様相が華々しく換装する。

 彼女の胸元から下半身にかけてを包み込む、西洋ドレスのような紫紺の装束。

 胸部から二の腕周りを囲う純白のフリル。紫を基調とした袖が右腕の全体を覆い、袖口には白いフリルが花を開くように咲く。

 杭を握る小さな右手には黒い手袋。

 対照的に、左側は半袖で、手袋は白い。

 そして、上衣のすそは華やかなフリルが大きく波打ち、たれ、右腰から左脚の大腿部にかけて傾斜を描いている。その波の激しさは、あおく染められた裏地が僅かに窺えるほど。

 結果、下衣の左半分は上衣の裾に覆われ窺うことが出来ない。

 右半分から露見する様子では、純白のプリーツスカート。極端に短く、裾部には半透明のフリルが飾られている。

 磨き上げられた美しく端麗な脚部が、惜しみなく露出され、小学生とは思えない抜群の等身が初々しく光る。

 肩や袖にも布の類いはなく、精緻な肌が艶やかに色めく。

 変わり果てた——けれど輝かしく優美な姿に、日音の目は意図せず爛々と瞬いていた。

 なにせその様相はあまりにも——。

「きれい……」

 思わず目を奪われる日音。

 敵の存在すら、今の彼女の頭からは忘却されていた。

 しかし、直後に響いた地鳴りで、意識が覚醒する。

 煙幕の中から、緩慢と体を起こす禍津。

 さすがに、投げ飛ばしただけでは、大したダメージにならなかったようだ。

 直後、禍津の体から蛇腹状の尾が延展。明依目掛けて蛇行する。

 全方位からの集中砲火——。

「————ッ⁈」

 さすがに対応に焦る明依。

 瞬間、紫紺の空に、真紅の炎が揺らめく。


『 日向暁天 陽炎かげろう——‼︎ 』


 不規則に波打つ猛炎が、天頂から真っ逆さまに舞い降りた。

 まるで境界を引かれたように、禍津の猛攻が断絶される。

「ハルちゃんっ……⁈」

「悪い! 遅くなった……」

 勇ましくはためく黒い外套はたくましく、不思議と安心できる、高貴な魅力があった。

 同時に、先刻の願いが叶ったようで、嬉しくなってしまう明依。

 想い他人を見るような瞳で、思わず頬がゆるむ。

「ううん、ありがとう。助かったわ」

 しかし、まだ安堵は仕切れない。

 烏合が蔓延る戦場に、変わり映えはしない。

「にしてもスゲェー数だな。これ二人で祓えんのか?」

 困ったように刀を肩に乗せる晴葵。

 怯えると言うよりかは、面倒臭げな様子が窺えた。

 おそらく、発した言葉とは裏腹に、目の前の脅威をあなどっているのだろう。

 だが、それは明依とて同じこと。彼女達には、敵勢力を無礼なめるに値する自信がある。

 憂鬱そうに眉を狭める晴葵へ、明依は莞爾と笑ってみせた。

「やるしか道はないでしょ? 大丈夫。私達ならきっと出来るわ。だって御三家だもの」

「んじゃ勝負するか? より多くの数祓った方が勝ちな! 負けた方はラーメン奢りな?」

「望むところよ!」

 晴葵の煽動に、挑戦するような笑みで乗っかる明依。

 二人同時に地面を踏み込み、煙を巻き上げて跳びたった。

 渦巻く赤碧せきへきの風塵——。

 同時に生じた土埃に打たれながらも、日音はその背中を遠くから見守る。

 風よりも疾い速度で、瞬く間に禍津を圧倒していく明依。獣の如き敏捷びんしょうさと、光の如き速力で、二つの刃を走らせる。

 対照的に、なだらかに揺らめく紅炎を、鮮やかに引いていく晴葵。風になびく花びらのように、けれど、炎天のように烈々と、敵の装甲を悉く焼き斬っていった。

 どこか、画面の奥を見ているような距離感が、日音と二人の間にはあった。

 同じ地で生まれ、同じ地で育った同朋が、今はとても遠くに感じる。

 胸の奥を、得体の知れない何かに掴み取られ、捻り回されるような不快感。

 呼吸を止められるほど窮屈な肩身の狭さ。

 乗し掛かる重苦しい感情は、濁流する泥に浸した和紙のよう。

 明依と晴葵が活躍する姿を、日音は素直に喜べなかった。

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