第3話
泣き声がする。それも、声変わりの終わった野太い男の声だ。
学年主任の田中は、一頻り頭を抱えると声のする方へと歩みを進めた。
場所は意外と近く、三年の男子便所だった。
泣いているのは喜吉(キヨシ)という生徒で、近くに笑いを堪えきれていない桧山が立っている。
これだけの情報で、大体状況が読めてしまう。
「……一応聞く、何があった?」
「せ゛ん゛せ゛え゛っ、こいつがっ……!」
「えぇ~? 俺はただ、お前が探し物してたから、もしかしてと思って教えてやっただけだろ~?」
取り乱す巨漢相手に、よくもまあこういけしゃあしゃあといられるものだ。
喜吉は田中に個室の一つを見ろとしつこくせがむので見ると、便器の中に糞だらけになった財布が浮かんでいる。
「…………」
田中の教師生活において、生徒の財布が糞だらけになって発見された時に掛ける言葉を知れるような経験は、これまでになかった。
「まーまー、こんなババアが持ってるカバンみてえなだっせえ柄の財布、糞付こうがどうでもいーじゃん。元気出せよ!」
「ふざけんなあぁ!!」
実際のところ、三年一組というクラスは、いじめっ子といじめられっ子でいうなら前者を多く寄せ集めた問題児の集団だった。
喜吉の肩をぬけぬけと叩いている桧山というのが、その中でも頭一つ抜けている。
入学する前から、複数の教師をいじめて次々と離職に追い込んだ小学生が居る、と噂になってはいたのだ。
元より中学校教諭は思春期の難しい時期の子供とぶつかり合うのが仕事だから、そんな悪ガキには負けない自負が田中にはあった。
故に、余裕の構えで自らの仕事場に桧山を迎え入れた。
一年生の桧山が部活動に入ったのは、田中にとっても都合の良い出来事……である筈だった。
生意気な桧山は、すぐに上級生に目を付けられるだろう。
そうなれば、田中や教師陣が手を下すまでもなく桧山は挫かれ、学生らしい謙虚な振る舞いを身に付ける。
結論から言うと、田中の目論見は大きく外れた。
桧山は計七名の上級生を暴行した後、彼らの頭を下駄箱に嵌めて放置したのだ。
事が起きて、田中は初めて理解した。
桧山には上下関係などというモラルの産物は通用しないし、自分に楯突く者は何者であろうと痛め付けるのが桧山という男なのだと。
「早く授業に戻りなさい」
田中の一言に、喜吉は大泣きしていたのも忘れたかのように黙り、田中を睨み付ける。
「……はぁ? いつもは飴の袋が出てきただけで授業やめて全校集会開くくせに? このクソ教師が!!」
喜吉の怒りの矛先が、桧山から田中へと明確に移った。
これでいい、生徒の恨みなどいくら買っても痛くも痒くもない。
しかし、鬼のベテラン教師にも恨まれたくない相手くらいは居る。
桧山だ。
「またリンチされるのが怖いんだろ! 桧山なんかにいい年した大人がやられちゃってさぁ! 雑魚! 雑魚ハゲ教師!」
桧山への恐怖を認めるのに、抵抗がないとは言わない。
ただ、一度奴を敵に回してしまった田中には分かるのだ。
自分を本気で恨んだ桧山は、かつての凄惨な体験がお遊びだったと肉体に刻み付けてくるに違いないと。
男子便所での騒動に収拾もつけずに、田中は踵を返す。
もう、こちらから波風を立てない以外の方法が思い浮かばなかった。
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