マスターと元嫁
静まり返った店内にマスターのカクテルシェイカーを振る音だけが響いていた。
大人のやり取りを目の前にした真奈美は身体を硬直させていた。
そして、パソコンを開いて何も気にしていないかのようにふるまうのがやっとだった。
「はい、デニッシュメアリーです。これ飲んだら帰ってね。もう来ないで。」
「徹は優しかったのに・・・」
「いつのこと? もう何年経っていると思っているの。」
「8年・・・知ってるわよ。真面目なあなたを愛して、なんでも私の言う通りにしてくれる優しいあなたが好きだった。でも段々とつまらなくなっちゃってついあなたのもとを去った。特に決まった人はいなかったのに。そのあと何人もの男と付き合った。でもあなたみたいに優しい人はいなかった。」
「だから戻って来たっていうわけ?」
「だめ? 」
「だめだ。お前とは8年前に終わった。それから俺は変わったんだ。」
「そうよね。今も大学で地味な研究をしていると思ってた。それがバー経営しているなんて思ってもみなかった。私との別れがあなたを変えたの?」
「それは違う。お前と結婚して家庭を持つからには堅実に仕事をしていかなければいけないと思って研究者を続けていた。我慢していたんだ。実は結婚する前からこの仕事をしたかった。」
「言えばよかったのに。」
「言えなかったよ。」
「だから私がいなくなったから思い切ってこの道に進んだんだ。良かったわね。」
「そうだな。良かったよ。」
「そう・・・寂しいな。いまでも徹は私を抱きしめてくれると思っていた。」
「それは無いよ。」
「そう・・・」
「もう帰れよ。待っている人いるんだろ。」
「なんでそう思うの? 」
「指輪しているじゃないか。俺のは離婚届と共に置いていったからな。」
「フッ・・・よく見ている・・・」
「喧嘩でもした? 」
「浮気された。初めて・・・」
「されて痛みが初めてわかったか。」
「・・・そんなところかな。」
「帰れよ。帰って笑顔で“ただいま”って言えよ。」
「徹の所じゃだめ? 」
「だめだよ。」
「・・・徹は今幸せ?」
「ああ、幸せだよ。」
「・・・そう。良かった。」
「だからさ、もう帰れって。」
「徹、女の趣味代わったわね。ずいぶんと若いし、地味じゃない。」
「彼女は違うよ、俺の女じゃない。」
「そう・・・まぁいいや。ねえ、そこの彼女、徹のことよろしくね。この人寂しがり屋だから。」
「・・・はい。」
真奈美は硬直したまま思わず返事をした。
「フフフ。じゃあね、もう来ないから安心して。・・・さようなら。」
彼女は店を出ていった。
マスターはカウンターの中で後ろを向いて大きなため息をついた。
「看板入れてくる。そしたら送るから待ってて。」
「はい。」
マスターは帰る準備を済ませて店の鍵を閉めた。
マスターは真奈美を家まで送りがてら話を始めた。
「真奈美ちゃんにはすっかり迷惑かけてしまったね。」
「そんなことないですよ。私何もしていません。」
「ううん。すっかり話聞いてもらっちゃったし、今日も変なとこ見せちゃった。」
「綺麗な人ですね。」
「そうだな。結婚するときも何でお前が・・・ってみんなにからかわれたよ。」
「マスター、本当はまだ好きなんじゃないですか?」
「どうだろう。そうかもしれない。でももう昔には戻れないから・・・」
「次の扉ですね。」
「そうだね。俺も次の扉開けないとな。」
「誰もが寂しいんだなって思いました。なんだか失恋するのは自分だけで、寂しいのは自分だけのように思っていました。」
「多分、みんな寂しさや辛さを抱えているよ。バーに来て飲んでいる人みんなそう。ひとりで飲んで解決している人もいるし、僕に話すことで気が楽になって帰っていく人もいる。バーってそんなところ。それが僕はいいと思っている。」
「マスターのおかげで私も救われました。真柴さんも救われたって言っていました。他の人たちも口には出さないけどみんなそう思っていますよ。マスター素敵です。」
「ありがとう。」
「マスターもまた恋をしてください。」
「真奈美ちゃんもだよ。怖がっちゃダメ。失敗したっていいんだから。」
「そうですね。マスター、また紹介してくださいね。」
「真奈美ちゃん理想高いからな~」
「えーそうですか? 普通じゃないですか?」
「ハハハ・・・」
いつものマスターの笑い声だった。
マスターは真奈美のことが大好きだった。素直で真面目で反応が可愛くて、何事にも一生懸命で、可愛くて可愛くて仕方なかった。でも20歳以上も年下だし、真奈美に手を出したらこの幸せな時間が無くなると思うからそんなことは出来ない。だから、その想いは封印すると決めていた。
その扉だけは開けられなかった。
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