知らない香り_1

 牧草の上で胡坐をかき、雲の流れを飽きもせずに眺めている子供が一人。名前をメイといい、中性的な顔立ちの滿十二歳となる一見ただの少女であるが、その正体は異なっている。

 だが、そのことに気づく者はほとんどおらず、いつも日がな一日中空を眺めているメイを放牧された動物たちさえ気にも留めないでいた。

 なにか家から声がするが、気づいていないのかメイに反応はない。空を見ることを止めずにいると、こめかみに堅い物がぶつけられる。それは、古い蹄鉄であった。

「呼ばれたらさっさとこい穀潰しが!」

 窓から蹄鉄を投げつけた男はその行為を悪びれもせず、さっさと顔を引込める。

人の目を盗み行われるこのような行為は日常茶飯事であり、こめかみからは皮膚が割れ血が垂れているというのにメイは痛みにたじろぐこともなかった。

「ほれ、仕事だ」

 母屋にて、この農家の主である恰幅のいい禿げ上がった男に書類を渡される。そこには名前、住所、行動パターン、似顔絵が記されていた。

 仕事とは何を指すのか。それは、暗殺であった。

 農家の主が十二の子供に何を言っているのかと思うかもしれないが、まず彼は農家の主人ではない。表の顔を作るために部下に農作業を任せ農家という体裁を整えているだけにすぎず、本業は違法薬物の横流しである。

そして、メイの生業は殺し屋であった。その証拠に、殺しの命令をにべもなく受ける。

羽虫一人殺せないような優しい少女と周りは思っているが、そもそも彼女は少女でも人間でもない。魔物の中でも位の高い、吸血鬼であった。

吸血鬼の中でも長寿であり、固有性別を持たず両性に順応でき、それに合わせた生殖機能も有せ、他種を同種へと変える術も持つ、種が途絶えることのない完全な魔物とされる最上位の存在であった。

 そんな上位種族の魔物がなぜ人間に顎で使われ暗殺を行っているのかといえば、それはメイが他の魔物との混血であるからだ。

種の血統を何より重んじる吸血鬼社会から混血のメイは追放されており、人間はもちろんのこと他の魔物もはぐれ者など受け入れたくはなく、物心がつく前よりメイには居場所がどこにもなかった。

そんなメイがどうしてこのような組織と関係を持つようになったかは語るに及ばないだろう。この組織へ流れ着いたのもたったの一月前であり、もうすでにいくつの人物に関わり何人殺したなど、とうに数えることも忘れてしまっていたメイである。

 今回もまた、誰に好かれるでもなく、すればするほど嫌われ蔑まれる行いを食い扶持と居場所を保つためだけに行わなくてはならない。

 主の話によれば暗殺対象者は横流し先の一つを検挙し、利益拡大を図る第一歩の商売計画を台無しにしたというが、相手に非はまるでないのをメイはわかっていた。だが、恨みはないが生きるためには止む無しといったところであった。

 文字の読めないメイは、文字の並ぶ書類に困った顔を見せるが、主人は何も言わない。口頭で伝えないのは、わざとなのだ。

 腕が立つと聞き取引元より流れ着いたメイを雇いうけたが、殺し以外にできることはなく、仕事が舞い込まなければただ雲を眺めているだけの金食らいに苛立ちを覚えているのだ。

 とはいえ、取引元からの紹介の下に受け入れた建前追い出すことも出来ず、このような嫌がらせで鬱憤を晴らしていた。

どのようなことでも依頼主に対象者の情報を訪ねるのは禁じられているため、主の前から去ると仕方なく自分に暴力を奮う男に書類の情報の教えを乞う。

 綺麗なまでに割れていた傷がいつの間にか影も形もなく塞がっているメイを見て男は気味悪がって殴りつけると、卑下た笑みを浮かべて名前だけを教えてやった。

「イザドル・アランデル」

 咀嚼するように何度もつぶやくと、メイは着の身着のまま家を出て行った。


 五日後、メイはイザドルの姿を目視していた。

 たった二つしか町が離れていないというのに、名前だけの情報を頼りに人に尋ね回ったため、ここまで時間がかかってしまっていた。

 だが、メイの気は軽かった。暗殺の期間を設けず、必要な情報も教えないという事は急ぐ案件ではないという事であり、ゆっくりと観察し殺す機会をうかがえるためだ。

 そのため、二週間はじっくりと観察のみに費やすこととした。暗殺には時間がかかるもので、取り逃がすのはもちろんのこと目撃者を出すことを避けなくてはならず、確実にしとめられる機会を見つけ出すことが重要であった。それは力があろうとなかろうと、条件の重さ以外は変わりなかった。

 暗殺へ向けた費用や小遣いもろくにもらっていないメイは、貧民街であるガビ地区を拠点とした。貧民街ではよく他地区からの炊き出しが行われているので食費はほとんどかからないし、環境面に目をつむれば寝れる場所はいくらでも見つけられるからだ。

 メイは仕事をする時はよく、貧民街の墓場を寝床とする。通常墓場には魔物に食い荒らされないよう埋める前に聖水をかけるための小屋が建てられているが、貧民街では死者数が他とは比べ物にならない。一々念入りに一体一体聖水で清めるのは手間なため、まとめて聖水をかけてしまおうと横着をする墓守が多い。そのため、死体が放置されがちで腐臭が小屋には染みついており、その匂いの不快さと、それに釣られた魔物が寄ってくる恐怖から小屋に住む者はほとんどいない。

 都合よく、目星をつけた小屋には生者も死者も住人はいなかった。

 この墓場からイザドルの住むイドゥン地区は丁度町の端と端に当たり、同じ町とはいえ馬車を要するほどの距離があった。歩いていけば、半日はかかってしまうだろう。

だが、吸血鬼の名は伊達ではなく、彼女の健脚をもってすれば馬車と変わらないかもっと早くに着けてしまうため、彼女には距離は関係なかった。むしろ、自分の顔が割れる心配がないので気楽であった。

これまで不眠不休でイザドルを探していたため、体力では問題はないが精神的には流石に少し疲れが顔を出してきていた。

この日は配給を受け味のしない飯を胃に入れると、誰に文句を言われるでもない静かな寝床で久々にぐっすりと眠り、翌日から観察を開始した。

観察を開始して一日で、メイは相手にはほとんど隙がないことを悟った。学者風の見た目は少しも屈強には見えず、飄々とした振る舞いは隙だらけにも一見感じるが、メイにはそうは取らなかった。

名前を聞きまわる内に今度の相手が繋ぎ人であることは知っていたが、想像していたよりもずっと手ごわい相手だと、歩き、食事の動作、瞬きの仕方、そんなちょっとした挙動から直感的に理解した。

だが、彼女は物心がつく前よりこの暗殺の世界に身を投じており、すでに繋ぎ人や同業者、手練れの兵士から本に書き記される程の魔物までこの手にかけていた。そんな彼女にとって今回の案件は、相手が手強いところで帰るのが少し遅くなると感じる程度でしかなかった。

 その経験はすぐに顔を見せ、観察を開始して五日目にしてすでにイザドルの隙を見つけてしまった。

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