恋の一杯_2

 イザドル宅を辞したアーロンだが、向かった先はと言えばああ言ったばかりだというのに、意中の女シェフの店であった。

 頭ではわかっているのだが、彼女への欲求をどうしても抑えることが出来ないでいた。

 店に入ると、感じのいい少女のウェイトレスが笑顔で出迎え、所定の席へ案内してくれる。この席からは厨房の様子がよく見えるため、アーロンのお気に入りなのだ。そのことを彼女も心得ているようで、よく気を利かせて空く席はそこにするように上手く客を捌いてくれているようだ。

「今日はお客さんがまだいないんで、おじさん用に確保しなくてすみました」

 陽気に笑うウェイトレスに、アーロンは堅い笑みを返す。最初よりは幾分かましになってはいるが、やはり緊張が解けないでいた。

 ウェイトレスが水とメニューを置いて行くと、自分を落ち着かせるように店内を見渡す。彼女の言うとおり、夕食時より少し早いというだけだというのに今日は他の客がいなかった。ここは繊細なソースに人気があり、少なくともいつの時間にも一組の客はいるため、常連のアーロンといえど初めての経験といえよう。

 この経験が、彼の恋に大きく影響を与えることとなる。

「今日は何を作りましょうか?」

 メニューとにらめっこしていると、気づかぬうちに女シェフは後ろにやって来ていた。客がいない時に常連客が訪れればシェフが顔を出すのはおかしくないのだが、そんなこと考えもしなかったアーロンは驚きと喜びで顔を赤くする。

 会話を交わすようになったと言っても、混雑している時にウェイトレスの代わりに料理を運んでくる際に世間話をするくらいの間柄であったため、用もないのにわざわざ相手から顔を見せてくれたことが嬉しくて仕方がないアーロンであった。

「えっと、その、どれもおいしいから、迷うな」

 頭をかいて口ごもるアーロンを笑うと、女シェフは席につくと覗き込むように見つめた。

「なんだったら、メニューにないのでもいいんですよ? お客さんよく来てくれるから、特別にサービスしちゃいますよ」

「……アーロン」

「え?」

「お客さんじゃなくて、アーロン。俺の、名前です」

 大の男が恥ずかしさから目も合わせられず、か細い声でそう口にするのを見て、女シェフは声をあげて笑った。

 その反応がどういった意味を持つのかわからず怯えていると、女シェフの手が差し出される。

「私はマーテル。よろしく、アーロンさん」

 なにが起きているのか目の前の現実を掴めずにいると、目の前の手が上下される。我に帰ったアーロンは手の汗を丹念に拭うと、女シェフ――マーテルの手を弱弱しく握った。

今まで気づかなかったが、髪と同じ茶色のまつ毛と緋色の瞳のコントラストの美しさが、マーテルの主張しない周りのパーツとの対比で一層輝いていることをアーロンは知った。

 胸が甘い気分で満たされたアーロンが結局思いついた注文は、メニューにないとはいえベーコンエッグとマッシュポテトという面白味も珍しさもないものだったが、それがソースが売りのマーテルには珍しかったようで、上機嫌でそれを受けた。

 夢でも見ているのではないかと口を閉じ合わせるのも忘れ浮れているアーロンであったが、来店した一人の客を目にすると表情を変えた。

 相手はここより二つ離れた町で最近名をあげてきた商家の主で、その成功の裏には魔物関連商売が絡んでいることをアーロンは知っていた。

まだ相手は深いところまでには手は出していなく、またアーロンが恨みを買うような覚えもないが、そこは情報屋としての年季の長いアーロンだ。何気なくメニューを広げると体を半身向きを変え、自然な仕草で顔が直視されないようにした。

男はひどく酔っているようで、声を荒げて店員を呼ぶと、急いでウェイトレスが対応する。おぼつかない足取りでウェイトレスに席へ案内されていると、マーテルがこちらに料理も持ってきた。

「皆あなたみたいにいい人ならこっちも楽なんだけどね」

 いたずらっ子のような笑みを浮かべてこそこそと囁きかけると、マーテルは厨房へ戻った。

相手は上手い具合に対角線上の席にこちらに背を向けて座ったため、アーロンは表情を緩めてナイフとフォークを手に取った。

アーロンがベーコンで卵をくるみ、それを口に入れようとすると男の怒声が店内に響いた。どうやら、酒の品ぞろえに文句を言っているようだ。

 マーテルがウェイトレスの代わりに話を受けるが、自分の好む酒がないのなら酒屋に行って買ってこいなどと喚いている。男は自分の町の地酒を求めているようで、無理難題といえるこの要求に困りかねているマーテルを見て、アーロンは頭が指示を出す前に体を動かしていた。

「騒がれると、食事がまずくなるんだが」

 自分よりも頭二つほど身長の高い大男が女シェフをかばうように出てきたことに少しうろたえるが、そこは酒の力を借りて睨みを利かせる。

「なんだてめえは。これは俺とこいつの問題だろが。すっこんでろ!」

 懐から酒瓶を取り出し、それを煽ると息巻いてみせる。

 戸惑うマーテルとウェイトレスを厨房に下げると、アーロンは腰を落して男に耳打ちをする。するとどうだ、急に態度を丸くして、早々に店を後にしたではないか。

 何事もなかったように席へ戻り、食事を続けるアーロンに二人が駆け寄ると、仰々しくお礼を口にする。それを先ほどの堂々とした振る舞いが嘘のように、おどおどとアーロンは頭をかいて受けた。

「知り合いを通しての、ちょっとした顔見知りで。少しそいつの名を出して注意してやっただけ……です」

「お顔が広いんですねー。あ、もしかしてマフィアと繋がってる危ない人だったりして」

「こら、失礼なこと言ってないで掃除でもしてなさい!」

 マーテルに叱られ、舌をぺろりと出すとウェイトレスは会釈して下がる。

「すみません、いい子なんですけど、たまにああで」

「勘違いされても、しょうがない。勝手にあんなことして、すみませんでした」

「いいえ、すごく助かりました。さっと割って入ってくれて、暴力とかじゃなくて話し合いで解決してくれるなんて、すごくかっこよかったです」

 マーテルの言葉に見る見るうちに顔を赤くするアーロンは、喉を鳴らして水を飲んだ。それに笑うと、なにかを思い出したように手を叩くと厨房へ下がり、グラスを手に戻ってきた。

「よかったら、これ飲んでください。さっきのお礼です」

 差し出されたグラスを手にすると、アーロンは見たこともない中身を不思議そうに見つめる。赤ワインを濃くしたような色をしているが、揺らしてみるとすこしとろみがついている。

「それ、色んな果実を合わせたドリンクで、疲れが取れて免疫がつくって都会で人気の物なんです。まだ仕入れが確定してなくて、メニューにも出してないんですよ」

「そんな貴重なものを、俺が飲んでも……?」

「ええ、もちろん。あ、でもよかったらお知り合いにも噂流してくださいね。アーロンさんのお顔の広さに、ちょっと期待しちゃってます」

「あ、えっと……任せてください」

 アーロンは胸を叩いてはにかむと、さっそくグラスを口に持って行った。だが、グラスの匂いを嗅ぐと、眼光を鋭くして手を止めた。

 丁度その時、今度は酒気の感じない一組の客が来店したため、意識がそちらへ向きアーロンの異変には気づくことはなかった。

 マーテルが頭を下げて厨房へ戻るのを確認すると、ドリンクを口にすることなくグラスを置く。その顔には、汗がべっとりと広がっていた。

咳き込むフリをして解れた袖の糸を噛みちぎると、財布から札を取り出し、それを置いて席を立つ。その際、密かに千切った糸をドリンクにわずかに漬け、手の平の中に包み隠した。

病人のように席を立ったのを見てウェイトレスが駆け寄るが、アーロンは押し付けるようにチップを渡す。

「すまない、急に体調が悪くなった。残してしまってすまないと、シェフ……マーテルさんに伝えておいてくれ。金は、そこに置いておいたから」

 それだけ言うと、ウェイトレスが止める間もなくアーロンは店を出た。その足取りは、今にも倒れそうなものだった。

 なにが彼の気分をここまで変えたのかといえば、それはあのドリンクのせいだ。あのドリンクの香りに微かに含まれているものは、アーロンがよく知るものだった。

 それは、ブラッドラッグ。通称、汚れた幸運。魔物の血から精製した、麻薬のことである。

 貧民街では快感を得るため、ただの麻薬よりも遥かに安価なブラッドラッグが出回っている。さらに種類によって様々だが、安いだけでなくブラッドラッグは通常の麻薬の五倍の快楽効果があるとされているため、少し金に余裕があってもわざわざブラッドラッグを好んで使用するという者も後を絶たないでいた。

だが、それには強力な副作用があり、通常の麻薬の症状に加え、程度は様々だが人狼が銀にアレルギーを持っていたり吸血鬼が日光に弱いように、ドラッグに使われる魔物の負の特性が体に染み付いてしまったり、最悪の場合魔物に変わってしまうのだ。

その恐ろしさを、貧民街で人生の半分を過ごしたアーロンは身に染みて思い知っていた。

そんな危険な代物がドリンクに微量ながら含まれていたこと、これがなにを意味するのか。

マーテルは騙され、そのドリンクを入手したのか。それとも、彼女自身それを知っていて、このドリンクを自分に振舞ったのか。そんなこと考えたくもないアーロンだが、どうしてもそのことが頭から離れなかった。

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