第2話 坊ちゃん、家出する


 婚約破棄を賭けた戦いから数日後、体の傷は治ったがシリウスの心の傷はそのままだった。

父親はあれからずっと不機嫌だし、自分に対しての風当たりも強くなった気がする。


 兄も妹も腫れ物に触るように遠慮して話しかけてもこないが、それはむしろありがたいことだった。

誰かと陽気に会話をするような気分ではないのだ。


 唯一の例外は母のマリアで、シリウスが試合に負けてからというもの、事あるごとに接してくるようになった。

もとから干渉と束縛が強い方だったが、あれ以来さらにひどくなっている。


 今も美味しいお菓子が手に入ったからなどと言って、シリウスの部屋にやってきて、もう長いこと居座っていた。


「ねえ、シリウスちゃん。ママは剣だけがあなたの生きる道じゃないと思うの。実家が四大魔闘侯だからといって、魔闘士にこだわる必要はないんじゃない?」


 その発言はシリウスにとって、これまでの人生を全否定されているのと同じだった。

五歳にもならないうちに修業を始め、ずっと魔闘の技を磨くことに明け暮れてきたのだ。

努力の甲斐あって十三歳でブルドラン流の免許皆伝めんきょかいでんとなったのに、母はそのすべてを捨てろと言っているのだ。


 言いようのない怒りが腹の底から湧いたが、同時にシリウス自身もわかっていた。

この執着が身を亡ぼすのだ、と。

もしこの体で魔闘士を続ければ、いつかは必ず魔物との戦闘に敗れるだろう。

それも名もなき雑魚を相手にだ。

母はそれを心配している。


 だが、わかっていても従えないことはある。

これ以上の議論は嫌だった。

口を開けば優しい母を傷つけてしまうかもしれない。

もう話したくなかったがマリアは出て行くそぶっりすら見せなかった。


「シリウスちゃんは学問もできるから、今からでも学者や商人を目指してもいいんじゃないかしら?」


「母上……」


「結婚相手だってそうよ。セティアなんかもう忘れてしまいなさい。ママがもっといいお嫁さんを探してあげるわ」


「母上」


 いらだつシリウスの様子にマリアは気づいていない。


「だいたいシリウスちゃんが魔経路閉塞症になったのだって、セティアを魔物から庇ってできた傷のせいじゃない! それなのにあの親子は感謝することもなくこんな仕打ちをして! 本当に腹が立つったらありゃしない!」


「母上、もうそのことは……」


「そういえば、リドウ家の次女が十六歳になると言っていたわね。あの娘ならセティアよりずっと気立てが――」


「マリア殿!」


 イライラが頂点に達し、十年ぶりくらいに母を名前で呼んでしまった。

この母は父の後添いであり、生みの親はシリウスが四歳の頃に病で死んでいる。


 初めて二人が出会ったとき、シリウスは六歳、マリアは二十歳だった。

それ以来ずっとマリアはシリウスを溺愛してきた。

義理の母とはいえ過剰すぎる愛を注いできてくれたのだ。


 突如名前で呼ばれたマリアは驚きに口をつぐんだ。

その姿に心が痛んだが他人を思いやる余裕は今のシリウスにはない。


「一人にしていただけますか。考えたいことがあります」


 マリアの優しさは理解していたが、今はその気遣いがわずらわしかったのだ。


「ごめんなさい、私ったら……」


 狼狽ろうばいするマリアの目の端に涙が滲んでいる。

これでは八つ当たりだ。

シリウスは自己嫌悪にさいなまれたが発した言葉はもとに戻らない。

マリアはお茶の道具をお盆にまとめて出て行ってしまった。


「はあ……」


 一人になった部屋でシリウスはことさら大きなため息をついた。

ため息をつくと幸せが逃げるなんて言説は嘘だろう。

大きな息を吐くだけでわずかとはいえストレスは軽減される気がする。

とはいえ、息が詰まる状態は何も変わっていない。


 ここにいる限り自分は役立たずのレッテルを張られ、実家住まいの厄介者として生きていくことになるのだろう。

月ごとに両親から小遣いをもらい、無為にすごす人生か……。

考えるだけで暗澹あんたんたる気持ちになる。

だとしたら……。


 夜半までベッドの上で悶々もんもんと過ごし、今後自分がどうすればいいかをシリウスは考えた。

そして一つの結論に行きついた。

家出である。


 若さゆえの安直な結論だったが、広い世界に出て行くというのはとても魅力的な選択に思えた。

ブルドランの屋敷にいたところでこれまでと同じ針のむしろのような生活が続くだけだ。

剣のことしか知らない自分が一人でやっていけるのか、という不安はあるが、やるだけやってみるとしよう。


 腹が決まるとシリウスの行動は早かった。

引き出しに入れた金を数えると四十万クロードある。

この世界の一般労働者の月給は十二万クロードほどだから、これだけあれば当面の生活には困らないだろう。

持っていくものは剣と金、あとはわずかな着替えがあればいい。


 壁にかけてあった自分の剣に手を伸ばしたが、シリウスがそれを掴むことはなかった。

手に馴染む愛用の剣ではあったが、過去を引きずるような気がして身につけることはできなかったのだ。

剣には密かに名前が付けてあった。

その名も「セティア」である。

すべてを捨てて世に出る自分が、元婚約者の名前を冠した剣を携帯するのもおかしな話だ。

シリウスは愛用の剣を捨て、宝物庫で新たな剣を物色した。


「うん、これがいい」


 シリウスが手にしたのは全長八十センチほどの宝剣である。

こしらえはシンプルで飾り気はほとんどない。

その名を「梅枝ばいし」という。

魔力を込めて振ると白梅の花びらが舞うように輝くことからそう名付けられていた。


 俺は逃げ出すんじゃない。ブルドランの名に恥じない人間になって戻ってこよう。

シリウスは両親の寝室がある方向に向かって深々と頭を下げた。

家を出ることを話せば反対されるに決まっている。

特に母のマリアは絶対に許してくれないだろう。

だったら置き手紙だけを残して、そっと出て行くのが最善の方法だ。


 月光が注ぐ夜の街道をシリウスは音もなく走り出した。

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