ナイフ(1)


アフメドは窓辺にある花瓶から手を放した。暗闇に包まれていたはずの夜が、太陽の光によって世界は照らされ、静けさが窓辺に置かれた花瓶と白い花を包み込んでいた。


病院に着き、デスクで鞄を整理しているアフメドの背中からエムレが声が聞こえた。


「アフメド医師と話がしたいと電話がありました」

「誰から?警察か?」


患者の夫が警察に相談したのかもしれないが、警察が彼の話すことに耳を傾けるとは信じ難かった。


「警察じゃありません。ブシュラという女性です。知り合いですか?あの若い新聞記者からも連絡がありましたよ」


ブシュラとは電話で何度か話したきり、実際に顔を合わせることがないまま長い時間が過ぎていた。最後に顔を合わせたのは香水を渡された日かもしれない。十何年の月日が流れていた。


「心配するようなことはない。古い友人だ」


エムレは変な妄想に取り憑かれたかのように心配の目を向けていた。ブシュラとウムトが手術の終わりを見越して夕方頃に病院を訪れるだろう。そんなことを考えながらその日の手術を確認し、準備を進めた。


手術室に入るといつもとは違う空気を感じたが、その正体は分からず、エムレの顔もいつもと変わらなかった。アフメドはその違和感を拭うことができずにいたが、手術はもうはじまっていた。


手術は問題なく進み、問題なく終わったが、まだその違和感がアフメドの周りを漂っていたことをどうすることもできなかった。


「アフメド医師、大丈夫ですか?」


エムレがそう思うほどアフメドは顔を歪めていたのかもしれない。


「心配するな。何もない」

「分かりました。何かあったら必ず相談してくださいよ」

「そうだな、他に相談できる人もいないし」

「そんなこと言わないでくださいよ」


この違和感の原因が何だったのかは知るのにそう長い時間は掛からなかった。死神と契約したかのような殺意に満ちた目で患者の夫が手術室の外でアフメドのことを待っていた。


彼が来たことだけでなく、その視線を無意識に感じながらアフメドは自分自身に警告していたのかもしれない。アフメドのことを睨み、決してその視線を外すことはなかった。


エムレがその彼の姿に気が付かないはずもなく、アフメドよりも先に彼のところに向かった。自分に近づくエムレには見向きもせずアフメドのことしか目に入らないかのように患者の夫はアフメドから決して目を逸らさなかった。


「アフメド医師、前に話した部屋で話さないか?」


彼の声は表情からは考えられないくらい落ち着いていた。その不気味悪さを感じながらもアフメドはそのことを受け入れた。いつもは妻が目覚めないこと対して怒鳴り散らすものだったが、今日はそうではなかった。


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