アフメドの仮説(6)


「悪いのは彼じゃないんだ」

「警察呼びますね、これ以上は黙っていられませんよ」

「エムレ、いいから落ち着け」


エムレを何とか落ち着かせてから、業務を終えて帰宅するとアフメドの体には何もできないくらい疲労が溜まっていた。どう伝えればあんなことにはならなかったのだろうか?もう少し時間が必要なのだろうか?


何事もなかったかのように窓辺にある白いユリはひっそりと佇んでいた。


患者の夫はアフメドの話すことに耳を傾けてくれそうではなかったが、それでも少しずつ話すことでアフメドの真意も伝わるんじゃないかと微かな希望を抱いていた。


しかし、翌日アフメドの前に患者の夫が姿を現すことはなかった。仕事が長引いたのか、どうしても行かなければならない場所があったのかもしれない。それでもアフメドはすぐに帰宅せずに、彼のことを病院のロビーで待っていた。


話したいというよりも、話さなければならなかった。そこにはアフメドが長年解くことのできなかった真実があるのかもしれないと思うと、じっとしていられなかった。患者の夫だってそのことに何か心当たりがあったとしても不思議ではなかった。


目覚めない患者もサラのように詳しいことは話さず、水の流れる場所で再会できることを願っていたのだとしたら?夫は何も知らなかったとしても、アフメドと同じように何かを感じ取っていたのかもしれない。


エムレもその日は患者の夫の姿を見なかったとデスクを片付けていたアフメドに伝えた。


「毎日はもう来ないんじゃないですか?患者もそろそろ目が覚めると思いますけど?」


エムレの考えはあまりにも楽観的に思えたが、次の日も結局は夫は病院に姿を現さなかった。患者の目が覚めれば、サラについて直接話すことができるとアフメドは考えていたが、本当にそうやって行動に移せるかどうかは自信を持てずにいた。


家に着くと花瓶の水を変えた。花瓶にはいくつか隠すことのできないキズがあったが、新品ではないし、そのくらいキズがあっても気にしていなかった。ただ透明なガラスに浮かぶ傷やスレは意外にも目立っていた。


そんなことを考えるなら、今まで落とすこともなければ、割れなかったことに幸運だと感謝した方がいいかもしれない。人が長生きするためには健康であることが重要なのは誰もが知ることであるが、それだけでなく『運』もそれなりに必要なんじゃないかと、ここ数日、気泡のようにアフメドの頭に浮かぶことだった。


サラは不運だったのか?新しく買った美しいデザインの花瓶が、花を生けられることなく棚から落ちて粉々のガラスの破片に姿を変えてしまうように。アフメドは意味もなくガラスの傷を指でなぞっていた。


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