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「結局、見つからなかったのね」


 ビールジョッキを口に運びながら、マルイさんは言った。


 旅行会社からの電話を受けた日、マルイさんは私を飲みに誘った。いつも行く居酒屋ではなく、個室のある、落ち着いた店だった。


「ええ。警察の人とか、地元の人とか、一生懸命に捜してくれたんだけど」


「悪いこと聞いちゃったわね。ごめん」


 私が十五年も海に近づかなかった理由を話すと、マルイさんはしゅんとしてしまった。海に行っていないことは伝えてあったが、その理由を話すのは初めてだった。


「てっきり、無理やり泳ぎの練習をさせられたとか、沖まで流されて死にかけたとか、そういうことだと思ってたのよ。まさかお兄さんが行方不明になったからだなんて、考えもしなかったわ。辛いこと思い出させたね」


「いいんですよ。もう十五年も前のことだから。それに正直、兄のことはあまり覚えていないんです」


 私は笑って言ったが、それは嘘だった。


 兄は海で行方不明になった。それは本当だ。


 兄はあの日、家族旅行で訪れたことのある海岸から、私の携帯電話にメールを送った。それ以降の行動は明らかになっていない。


 もっとも、私は兄からメールが届いたということを誰にも伝えていなかったので、警察がその海岸にたどり着いたのは、地道な聴きこみ調査の賜物である。


 しかし、結局兄が見つかることはなかった。


 捜索が長引くにつれ、兄は海に身投げしたのではないかという噂が立ち始めた。やがて兄の性格や行動が明らかにされていく中で、その噂はほとんど事実として認識されるようになった。世間は兄を、であると判断したのだ。


 事件は解決を見ずに、行方不明という扱いで、人々の記憶から消えていった。


 私がマルイさんにした説明は以上のようなものだ。そして、ここに嘘はない。


 嘘なのは、兄のことをあまり覚えていないという部分だ。私は兄のことを、今でも完璧に思い出すことができる。


 兄の顔を、声を、匂いを、存在全部を。


「でも、大丈夫なの? 今度の旅行」


 マルイさんは、好物であるチーズの揚げ物を口に運びながら言う。どうかな、と私は困った表情を浮かべてうつむく。


「でも、一生海に行けないなんて悲しいし、それに、一人じゃないから」


 私が言うと、マルイさんはニヤリとした。そして、先ほどまでの態度が嘘のように、いつもの調子で私の恋愛事情に首を突っ込み始めた。


 私はマルイさんが好きだ。こんな風に、裏表なく接してくれる先輩に出会えて、本当によかったと思う。


 しかし、そんなマルイさんに対しても、私は真実を告げるつもりはない。

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