神殿へ向かったノアは
神殿へ向かったノアはクロエの言っていた内庭と繋がる廊下を調べた。すると像を置くための壁の窪みに小さな鍵穴があった。クロエから渡された鍵を使うと、壁の一部が動いて細い隙間ができた。扉だ。手をあてて押すと、意外に軽く動いた。そして人が通れる大きさの這入口が現れた。
下りの階段がある。地下からの湿っぽく冷たい空気がノアの頬を撫でた。暗かったが、奥のほうで明かりが揺れているのが見えた。誰かがいるのだ。
ノアは神隷騎士団の剣を抜くと階段を降りはじめた。空いている手を壁に添えて、慎重に進む。真っ直ぐな階段をいちばん下まで降りると床に消えかけた松明が落ちていた。ノアはそれを拾うと頭上に掲げ、行く手を照らした。
先は細い通路だった。人がふたり並んでようやく歩けるほどの幅がある。
遠くからなにか聞こえる。歌か、詠唱のようだ。ノアが進むにつれ、複数人によるくぐもった声はしだいに大きくなってくる。加えて生臭い匂い。胸がむかつく腐臭だ。
さらにゆくと石壁の一方に細い光の筋。鋲打ちされた木の扉があった。建て付けが悪く、隙間から光が漏れているのだ。歌声は、その内側から聞こえてくる。
いくらかためらったあと、ノアは上部がアーチを描いている両開きの扉を開けた。
古びた扉は蝶番が軋んで大きな音を立てた。なかは薄暗い聖堂だった。ざっと見て十人ほどの人影がいる。手燭や振り香炉を持つ者たち。紫紺の法衣をまとった、いずれもオーリア正教会の信徒だった。ふいに歌声が途絶え、彼らの視線がいっせいにノアへと注がれた。
場が静まりかえる。頭部を不気味な頭巾で覆い、顔を隠す者らは、誰も声を発しなかった。彼らはノアが堂内へ足を踏み入れると、潮が引くようにゆっくり壁際まで身を退かせた。床のそこかしこに蝋燭を立てた聖堂の奥には、祭壇がある。神官王はそこにいた。
背の曲がった老人。金糸で縫い取りされた絢爛な祭服を着ている。頭に冠を頂いているものの、それは茶色い棒を組み合わせて作った歪な形をしていた。最初は木の棒かと思ったが、ちがう。あれは小さな骨だ。おそらくは子供の。さらに神官王はたくさんの人間から耳を切り落とし、それらを紐に通した狂気じみた首飾りを身につけていた。
神官王が歩み寄るノアに気づいた。白内障のような濁った眼が向けられる。だが目線の先は定まらず、ほとんど見えていないのかもしれない。
神官王の傍らには石造りの祭壇があり、血まみれなその上に切り刻まれた小さな躰が置かれていた。それへ神官王が手をのばした。血濡れた指先が、つまんだ肉片を口元へと運ぼうとする。ノアはぞっとして、その瞬間、力任せに剣を振るった。
神官王の首が胴を離れ、ごろりと床に転がる。頭のなくなった胴体は踏みとどまることもなく、ゆっくりと横向きに倒れた。途端、聖堂内にいたほかの者らがあわただしく出入口へと殺到する。
顔にじっとりと脂汗を浮かべるノアは、それから信じられないものを目にした。
神官王の亡骸が、もぞもぞと蠢いた。祭服の裾からなにかが這い出てくる。
曲がった二本の角。蝙蝠の羽根。節くれ立った偶蹄類の後脚。最下級の悪魔──レムレーだ。
矮小なレムレーは瞳のない目でノアを見ると、小さくキイと鳴いた。
こんなものに取り憑かれていたとは──
人の心は弱い。悪魔はそこにつけ込んで定命の者を堕落させる。以前はそうでなかったものの、神官王も老いてただの凡俗になりさがったということか。
ノアは剣を逆手に持ち替えると、猫ほどの大きさをしたレムレーを突き刺した。小さな悪魔の身体はすぐに溶解し、床の黄色いシミとなった。硫黄の匂いが鼻をつく。だが滅んだわけではない。悪魔は、決して物質界では死なないのだ。
※
長らく神官王が統べていた神聖王国オーリアは、政変により潰えた。
ラクスフェルドでは街中に触れ役が立ち、神官王が神隷騎士団により戮されたことを民衆に宣した。神官王の罪科、オーリア正教会の不正がつまびらかとなり、権力の委譲は迅速に行われた。
市民のなかには今回の事態を理解していない者もいただろう。しかし街ではお祭り騒ぎだ。それはまるで先の不安を打ち消したいと願う空騒ぎにも思えた。
そして夕刻。その日、最大の見世物がオンウェル神殿の正門前で催された。急ごしらえの絞首台による公開処刑である。多くの群衆が見守るなか、罪人が荷車に乗せられ連れてこられた。ほとんどがオーリア正教会の高僧や司教だったが、叛乱に賛同しなかった貴族もいた。
高い横木から垂れさがる幾本もの縄の輪に、つぎつぎと罪人の首が通されてゆく。見苦しく暴れる者もいれば、屹然と死を受け入れる者もいた。臨終となる彼らの告解を聞き、教誨を施したのは正教会を裏切ったモローだった。二心を抱く彼だが、結局は立ち回りのうまいやつが生き残る。
その場にはマントバーンとグリム、クリスピンもいた。だが、ノア・デイモンの姿はなかった。彼は見物人の群れから離れて、遠くの場所から絞首台を見ていた。馬に跨がった彼は旅装束だ。
神隷騎士団によって神官王の死が検分されたあと、多額の褒賞を与えられたノアは国を去ることを命じられた。遍歴の騎士として。建前は〝神官王殺し〟となった彼を旧派の残党から引き離し、身の安全を図るということだったが、体のいい厄介払いなのは誰の目にもあきらかだ。
真相は闇へと葬られる。ノアがマグナスレーベン帝国の密偵と通じていた疑惑も囁かれたが、功績と引き換えに不問とされた。そのクロエは、どうやら追っ手から逃げ果せたようである。
罪人たちが足を乗せている荷車が動き、とうとう吊られる段になると、群衆の熱狂は最高潮に達した。
ひときわ大きな歓声があがる。ノアはそれに背を向け、馬を歩ませた。
背後で皆が口々に叫んでいるのが聞こえた。
マントバーン王、万歳!!
新生オーリア王国、万歳!!
New Dawn, New Days 天川降雪 @takapp210130
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