銅鑼の音がけたたましく
銅鑼の音がけたたましく鳴っている。
薄明の早朝。ノアは神隷騎士団の屯所にある自室で微睡んでいた。目を覚ましたのは、同輩のレナードが彼の身体を乱暴に揺さぶったからだ。
「ノア、起きろ」
「レナードか……なんだ?」
寝台のノアは顔をしかめて毛布にもぐりこんだ。
「寝ぼけるな。いよいよ旗揚げだ。もうみんな広場に集まってる。おまえも急げ」
鼻の曲がったレナードはそう言うとノアの部屋から出ていった。
一気に目が覚めた。くそ、今日だったのか。悪態をついたノアは、あわてて寝台から抜け出ると身支度を調えはじめた。
前日グリムにクロエから聞き出した神官王の情報を伝えると、彼はご満悦の様子でよくやったと言った。オンウェル神殿には地下に秘密の至聖所があり、神官王はそこで悪魔崇拝の儀式を執り行っていた。求めたのは、不死。老いた彼は死を回避すべく黒魔術にすがったのである。幼い子どもたちを供犠として。
弾劾に値する悪行だった。そうなれば蜂起は近いだろうとノアは思っていたが、こんなにも急だったとは。下級騎士にはぎりぎりまで情報が伏せられていたとはいえ、誤算だ。
宿舎を出た。外では神隷騎士による少々の混乱が見られた。改革派ではない騎士たちが拘束され、一カ所に集められている。ノアはそれを横目に厩舎へと急ぐ。途中、数人とすれちがったが、幸い声をかけてくる者はいなかった。
屯所の横手にある馬屋に人の姿はない。馬もほとんど出払っていた。残っているのは輸送用の荷馬が数頭だけだ。ノアは手近な一頭に馬具を付けると裏口から敷地外へ出た。
もう戻る気はなかった。自分はクロエとこの国を捨てて、どこか遠い土地へ移る。ノアはそう考えていたのだ。
ラクスフェルド市街の通りには浮き足だった市民の姿があった。皆、異変に気づいて外へ出てきたのだろう。ノアはオンウェル神殿まで馬で駆けた。クロエを迎えにゆくために。
神殿へ到着すると、すでにそこは武装したオーリア軍の兵士によって包囲されている。犇く兵たちはマントバーンが抱き込んだ軍の将軍麾下の者らだ。破城槌が用意され、囲壁の正門が破られようとしている。大勢の市民たちがそれを遠巻きに眺めていた。
石造りの壁にある胸壁からひとりの聖職者が身を乗り出し、改革派の蛮行を口角泡を飛ばして批難しはじめた。が、その者はすぐにどこからか飛来した矢に射られて静かになった。
角笛の音が鳴り響く。ノアは南側の門のほうで鬨の声があがるのを耳にした。どうやら門が突破されたようだ。急いでそちらへ馬を回すと、兵たちが囲壁に穿たれた通用口へ突入している。それらの人波をかき分け、ノアは強引に馬を進めて神殿の敷地内へ入った。
草花を蹴散らしながら主庭を横切り、反対側の修道院へと向かう。そこにいた僧侶や修道士たちは逃げ惑うばかりで、抵抗する者はいなかった。
ノアは必死でクロエの姿を捜した。もはやオンウェル神殿はすべての門が破られ、騒乱状態となりつつある。はやくしなければ彼女もこの虐殺の犠牲になる。と、必死に周囲を見渡しているノアの視線が、ひとりの人物を捉えた。羊毛のシャツと、下半身にぴったり張り付く革のパンツという軽快そうな姿。どう見ても修道士ではない。だが、ノアには頭の後ろで引っ詰めた金髪でそれがクロエだとわかった。
ノアは馬に拍車をかけた。そしてクロエの進路へ行く手を塞ぐように馬を入れた。
驚いたクロエが立ち止まる。さらに彼女は馬を駆っているのがノアだと知り、さらに動揺の色を濃くした。
そのとき、神殿内へなだれこんだ兵士の何人かがふたりのところまで迫ってきた。武器を持った彼らは、周辺の修道士たちを見境なく手に掛けている。
短槍を持った兵士のひとりがクロエに突きかかる。が、彼女はそれをなんなく躱すと、槍の柄を抱えて自ら兵士の懐へ身を躍らせた。手には小さなナイフ。首の横へそれを深々と突き刺された兵士は血を吐いて、うがいをするような音を立てながら地に頽れた。間髪を容れず、別な兵士が横手より剣でクロエへ斬りつけてくる。しかしクロエは敵から奪った槍で相手の剣を易々と絡め取ると、右足首を穂先で突いた。悲鳴をあげて前のめりに転倒するオーリア軍の兵士。クロエはそのうなじを頑丈なブーツの踵で容赦なく踏みつける。頸椎の砕ける音が鳴り、兵士はそれきり動かなくなった。
思いも寄らぬ光景に息をのむノア。その彼のところまで、白い顔に点々と返り血を浴びたクロエが、平然と歩いてくる。
「はじまったのね。予想よりもはやかったわ」
頬についた血を掌で拭い、クロエが言う。そこでようやく、ノアは彼女の正体に思い当たった。
「とんだ化かし合いだったってわけか……」
「そのようね」
「じゃあ、おれといっしょには?」
ノアの問いにクロエは肩をすくめた。
「もちろんいかない。わたし、帰るの」
「どこへ?」
「北よ。ここからずっとずうっと北のほう」
北ハイランドに横たわる山脈を越えれば、その先はマグナスレーベン帝国の領土だ。
怒りと落胆がないまぜになった感情にノアは歯がみした。それから、急に虚しさと徒労感がきた。独り相撲もここまでくれば、われながらあきれて言葉もない。
ノアは憮然として馬から降りた。そして、クロエに手綱を差し出した。
「なら足が必要だな。この馬を使え」
「そう言ってくれると思った──」
手にする槍を投げ捨て、鐙にブーツのつま先を乗せたクロエが、笑顔でひらりと鞍へ跨がる。
「そんなにこわい顔しないで、ノア。またいつか会えるかも。あなたがこれから、平坦な踏み分け道でなく、陰謀に満ちた険路を進むならね。そうしたら、わたしたちの道はきっとどこかで交わっているはず」
クロエがノアへ小さななにかを放った。ノアはそれを片手で受け止める。手を開くと、真鍮製の鍵だった。
「こいつは?」
「礼拝堂から内庭へ出る廊下に聖人象の壁龕があるの。そこの隠し扉の鍵よ。神官王は、その先──至聖所に逃げたわ。狂騒劇の幕引きは、やっぱりこの国の人間がやるべきだと思わない?」
言い終わらぬうち、クロエは馬の腹を蹴っていた。
別れはあっさりしたものだった。去ってゆくクロエはいちども振り返らなかった。
佇立してクロエを見送るノアのすぐ横を、三頭の軍馬が駆け抜けていった。しんがりの一頭が速度を落とし、馬首を廻らせた。ノアのところまで戻ってくる。騎乗しているのはクリスピンだ。
馬上のクリスピンが剣帯に吊ったアーミングソードを抜く。剣先がノアへ突きつけられた。
「あいつとなにを話していた? 返答しだいでは、おまえを拘束する」
「そんないわれはない。おれは、命じられたことはすべてやったぞ」
「ノア、おまえはいいやつだ。おれだってこんなことはしたくない」
「信じるよ。おれもおまえも、命令される側だった。だがな、あやつり人形のおれをクロエに近づかせたうえ、神官王の秘密と敵国の密偵──その両方ともを手にしようなんて都合がよすぎるんじゃないか」
しばらく、ふたりは互いの目の奥を覗きあった。
「いけよ。はやく追わないと逃げられるぞ」
ノアが言うとクリスピンは剣を鞘に収めた。そして彼は、もうとっくに見えなくなったクロエを追うべく、ノアを置き去りにしてふたたび馬を走らせた。
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