先日の茶番劇が

 先日の茶番劇がうまくいったのかはともかく、ノアはクロエとの接点を得た。

 神官王の世話係が安心して街へ出向くことができないとなれば、種々に差し障りがある。ノアはクロエが外出する際の護衛役として、彼女と頻繁に行動を共にすることとなった。もちろんマントバーンがそうなるように裏で手を回したのだ。

 実際に知り合ってみれば、クロエはノアが思い描く修道女とはややちがっていた。清貧を重んじて善行を積む彼女は、たしかにオーリア正教会の信徒だった。しかし四角四面な人間ではなく、冗談を言ったり軽口も叩く。ときに思い詰めた表情を見せるのが気になったものの、誰だって日々の暮らしで立ちゆかない部分はあるだろう。要するに、概ねクロエは庶民の女性となんら変わらないということだ。

 毎日のように顔を突き合わせていれば必然的に距離が詰まる。とはいえ、まだふたりは互いの心の壁を乗り越えるまでには至らずにいた。ノアはあせった。時間がない。はやく神官王の尻尾を摑めと、マントバーンやグリムがせっついてくるのだ。

 一方で、ノアはクロエのことを知れば知るほど情が移ってゆくのを感じていた。もしかすれば魅かれているのかもしれない。彼女はまだ若く、たしかに魅力的だ。それゆえにクロエを騙し、利用しようとする自身の行いが、ノアの良心を苛むのである。責務と私情。言葉どおりの板挟みだった。

 小春日和にはまだ早いが穏やかな午前中。その日、ふたりは街へゆかずラクスフェルド郊外の農家を訪ねる予定だった。

 西の平原に近い開墾地は、たびたび蛮族が出没する危険な場所だ。ノアとクロエは小さな荷馬車を使って市街を離れた。

 ラクスフェルドの中心から遠くは、まだ正教会への反発が緩い。農夫たちは信心深く、そのおかげで托鉢にも応じてくれるというわけだ。朴訥、あるいは無知。誰かのために消費される運命の下に生まれた人々。皆貧しいが、おそらく神官王が失脚してもしなくても、彼らの生活が変化することはあるまい。

 何軒かの農家を回り、相当な量の食料を分けてもらった。

 帰途についたのは午後遅くだ。その途中、悪路の田舎道で荷馬車が石を踏んで大きく揺れた。

「停めて」

 クロエが言った。

 ノアが従うと、クロエは荷馬車から降りて荷台を覗き込んだ。積んだ荷が崩れていた。陶製の壺のひとつが転がり、割れてしまっている。クロエの横へ並んだノアが見ると、中身のオリーブ油が荷台の床にこぼれていた。

「残念だわ、口開けのオリーブ油だったのに。猊下はこれがお好きなの」

 とクロエ。

 猊下。神官王か。ノアはふと自分がいまクロエといっしょにいる理由を思い出した。

「どんな男なんだ。神官王とは」

「どんなって?」

「おれはずっとラクスフェルドで暮らしているが、神官王の顔なんて見たこともない」

「お忙しいのよ。ユエニ神の教えをたくさんの人へ伝えるため、常に腐心してらっしゃるんだもの」

「そうは言っても、おれたちと変わらない人間だろう。ご立派な神官王だって魔が差すこともあるんじゃないか」

「どういう意味?」

 不思議そうな目でノアを見るクロエ。

「噂を聞いた。神官王が、神殿に子どもを連れ込んで虐待しているとな」

「まさか。猊下は分別のあるお方よ」

 そう言ってクロエは一笑に付した。が、その前にほんのわずか、彼女が言いよどんだことをノアは見逃さなかった。

「疲れたわ。少し休まない?」

 クロエの提案にノアも賛成した。ちょうど近くでは農地へ水を引くための小川が流れていた。ノアは荷馬車の軛から老いさらばえた馬を解放してやり、水を飲ませた。クロエが草の生えた土手の斜面に座って、それを眺めている。

 川岸にぽつんと立つ柳の木に馬を繋ぐとノアもクロエの隣に腰をおろした。

 クロエが口寂しさを紛らわせるための干した無花果をノアへ手渡す。礼を言って受け取ったノアがしわくちゃな乾物を囓ると、ねっとりした甘みが口のなかに広がった。

「あんたはどうして修道女になったんだ?」

 ノアのその問いに他意はなかった。何気ない閑話だ。

「心の救いを求めて。オーリア正教会では、わたし以外の心に傷を負った人たちの力になることもできるからよ」

「ばかな。残りの生涯を他人のために捧げるっていうのか」

「ええ。そのつもりよ」

「やめておけ。自分のことをせずに他人に尽くすなんて負け犬のやることだ」

「神隷騎士のあなたが、おかしなことを言うのね。神隷騎士は魂をユエニ神に、肉体を精霊に捧げたはずよ。弱者への献身のために」

「それは便宜上の話だ。おれは他人の犠牲になるなんてごめんだ」

「犠牲だなんて……助け合うのがいけないこと?」

「宗教にすがるのは自分の面倒もろくに見られないクズばかりだろう」

「すべての人があなたのように強くはないわ」

 ノアの横顔を見つめるクロエの口調が、無宗教者を辛抱強く説き伏せる伝道師のそれにかわった。

「よくて? もし宗教がなかったら、この世はどうなると思う?」

「さあな」

「人倫にもとる世界になるわ。誰もが後先を考えずに好き勝手なことをすればね。そうならないのは宗教があるからよ。宗教は人間の理性が具現したもの。だからこそ、わたしたちはそれによって自分自身を律することができる」

「まるで足枷だな。いらんお節介だ」

「オンウェル神殿にはいろんな人がくるのよ。熱心な信仰者のほかに、奴隷の取引や高利貸で大儲けした人なども寄付をくださるの。どうしてだかわかる?」

「カネは持ちすぎると価値が下がる」

「ちがうわ。その人の内に正しいことをしたいという善心があるからよ」

「正教会に献金することで自分を誤魔化しているだけだ。他人を食い物にしてる負い目があるからな。でもそれで奴隷商人と高利貸があくどいカネ儲けをやめることはない。結局、なにも変わらないじゃないか」

 ノアの言葉にクロエは嘆息し、頭を垂れた。

「皮肉ばかり言うのね」

「言いたいことを言うのはおれの性分だ」

「そう? 人には二面性があるわ。あなたにもきっと、素直な部分があるはず」

「勝手に言ってろ」

「冷淡で身勝手。それに頑固。だけど悪い人ではないわ。他人と交わるのが嫌いなだけね」

 言ったあとクロエは小さく鼻で笑った。それがノアの勘に障った。利いたふうな口を。いまおれが、面倒を抱えて苦心していることも知らずに。

 かっとなったノアはクロエの腕を取ると、手荒く彼女の身体を自分のほうへ引き寄せた。

「あんたに、おれのなにがわかる?」

 息がかかるほどの間近で、ふたりが互いの目を見交わす。

 クロエは声ひとつあげなかった。ただじっと、まっすぐに、氷のような眼差しでノアの瞳を覗き込んでいる。

 ノアはクロエの腕を摑んでいる手に力を込めた。

「逃げないのか」

 ほんのちょっと驚かせるつもりだった。だが、それに対してクロエは思わぬ反応を見せた。彼女は、妖しい微笑を顔に浮かべた。

「あなたがわたしを見る目に気づいてないと思った?」

 自分の心を見透かされ、ノアは顔が赤くなるのを感じた。

 考える間もなかった。衝動に駆られたノアはクロエがつぎになにか言う前に、彼女の口を自分の唇で塞いだ。

 箍が外れれば、あとはなるようにしかならない。人影のない小川の岸辺で、その日ふたりは男と女の一線を越えた。

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