数日の間を置いて、

 数日の間を置いて、ノアに新たな指令が下った。

 オンウェル神殿にほど近い居住地区。雑多な建物が並ぶそこに、ノアとクリスピンの姿があった。ふたりは狭い隘路に身を潜め、表通りの様子を窺っている。

「こんなの、到底うまくゆくとは思えん」

 沈んだ声でノアがこぼす。するとクリスピンは彼に同情を含んだ目を向けた。

「そう落ち込むな。まだどうなるかわからんだろ」

 と言った途端、ぶーっと噴飯してしまうクリスピン。彼はこのあとなにが起こるかを想像し、我慢がならなかったのだ。肩をふるわせつつ、懸命に笑いをこらえている。

「すまん。だが、これはマントバーン直々の命令だぞ」

「おまえ、他人事だと思って……」

 ノアは苦虫を噛みつぶした顔でクリスピンを睨んだ。

 そろそろ陽が落ちる時刻だった。東へゆけばオンウェル神殿へと至る住宅街の外れには、人の往来が少ない。通りの向こうには神殿を囲む高い石壁と、それをくぐるためのトンネルが見える。まもなくぽっかりと開いた這入口に、人影がひとつ現れた。

 紫紺の修道服。クロエだ。彼女は籐を編んだ底の浅い笊を抱えて歩いていた。

 このころラクスフェルドでは、もう動乱の兆しが現れていた。世にはびこる貧困と悪徳の根源は神官王にほかならない──そんな内容の怪文書が市街でばら撒かれ、街頭で堂々と神官王はユエニ神に見捨てられたと演説をぶつ者もいた。しかしながら、それらの扇動行為が取り締まられることは稀だった。その役目を負う神隷騎士団の改革派が後ろで糸を引いていたのだから、当然である。

 感化されたラクスフェルド市民の一部が声をあげはじめ、オーリア正教会に反発する小さな示威運動が起こることもめずらしくなくなった。結果、正教会の内部でも不和が生じ、いくらかの混乱が見られた。密告や事実無根の流言が横行して、誰もが盲目的に保身へと走った。神官王も例外ではない。彼は信頼できる枢機卿や司教以外とは顔を合わさず、公に姿を見せることがほとんどなくなってしまった。毎日の食事は毒害を恐れ、クロエが用意したものしか口にしていなかった。飲み水でさえも。

「時間どおりだ」

 クロエの姿を路地から盗み見ながら、クリスピンがほくそえむ。いまクロエは、神官王に出す夕食の食材を調達しに街へやってきたのだ。

「ノア、用意しておけよ」

 クリスピンがすぐ横にいるノアへと言う。

「いやだ。もう帰りたい」

「ばか言うな。ジョンとレナードも協力してくれているんだぞ」

「おまえ、なんだかたのしそうだな……」

「気のせいだろ」

 ノアとクリスピンが話しているあいだにも、埃っぽい道をクロエが歩いてくる。彼女の顔が判別できるほどにまで近づいたとき、路傍にふたり組の男が姿を現した。彼らはクロエの行く手を遮るように立ち止まり、なにか声をかけた。嫌がる素振りのクロエ。あきらかに不穏な空気が見て取れる。

「よしいまだ、いけ!」

「なんでおまえが命令するんだよ」

 苛立つノアはクリスピンにわざと身体をぶつけると、彼を押しのけるようにして路地から通りへと出た。

 重い足取りのノアがいかめしい顔つきなのは、この猿芝居を強いられたことを不満に思っているからだ。街中で不逞の輩に絡まれたご婦人を騎士が助けて、ふたりが知り合う。ばからしい。誰が考えた筋書きかは知らないが、安っぽいロマンス小説の読みすぎだろう。

 とはいえ、それがどんなに理不尽な命令だとて従わざるを得ないのが組織の常である。

 ノアが往来で揉めている三人へ近づくと、彼の足音に気づいたクロエがそちらへ首を回した。

「おまえたち、なにをしている」

 低めた声でノアがそう告げる。するとクロエのそばにいた男のひとり──正体はノアの同輩である神隷騎士──が、じろりと彼を睨めつけた。

 もう片方の男は予定どおりに現れたノアへ数歩近づくと、彼の身につけている神隷騎士団の短衣を見て舌打ちした。

「おいおい、こいつ神官王の犬だぜ」

「その人から離れろ」

 とノア。

「なんだと、この──」

 悪漢役のひとりが声を荒げ、ノアへ手をのばした。ノアはすばやくその手首を摑むと、横へぐいと引っ張り相手の体勢を崩した。そして腰をひねり、空いている腕の肘を軽く当てるつもりだった。が、加減をまちがえたようだ。それは男の顔の真ん中へ見事に命中し、ごりっという感触がノアの肘へ伝わった。

 悲鳴があがる。ノアに鼻の軟骨を潰された男は両手で顔を覆った。手の指のあいだから血がしたたり、地面へぼたぼたと流れ落ちる。彼は背を丸め、崩れるように地に膝をつく。そうして怒りのこもった目でノアを見あげた。

 いやちがうんだ、そんなつもりじゃなかった。動揺しつつ心のなかで謝るノア。

「お、おまえもこうなりたいか?」

 平静を装うノアが目を丸くしているもう片方の男へ言う。彼はひとりで歩けそうにない相棒に肩を貸すと、その場を離れていった。

 事が済み、傍で見ていたクロエがノアへと歩み寄ってきた。

「あの、助かりました……」

「怪我はないか?」

 ノアに問われたクロエは首を横に振る。

「わたしはなんとも。ですが少々、乱暴だったのでは」

「いや、あれは……事故だ」

「なんにせよ、お礼を。ありがとうございます」

 クロエはそう言ってから、男たちが去った方向を見て表情を暗くした。

「最近、あのような人たちが増えている気がします。街では托鉢に応じていただけず、こちらに物を売ってくれない店もあるんです」

「ああ。正教会に対して妙な疑いを抱く者がいるのは、おれも知っている」

「嘆かわしいことです」

 顔を伏せるクロエ。その裏にある事情を知っているノアは少しだけ心が痛んだ。

「今日はもう帰るといい。神殿まで送ろう」

 クロエと並んで歩くあいだ、ノアは鼻の曲がってしまったレナードになんと言って謝罪しようかと、そればかり考えていた。

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