2.34

 ……顎が疲れてきた。食欲もないうえまた眠気が襲ってきて意識が散漫となりつつある。座っているだけでどっと疲れが溢れ出てくるこの状況、大変よろしくない。再び床に戻りたい。越冬中の熊となった気持ちだ。こうなっては食事は厳しい。




「富士」


「なんでございましょう」


「寝る」


「え、まだ一口二口しか箸を付けてないじゃありませんか」


「そうなのだが眠い。大変眠いのだ。故に私は限界。非常に心苦しいが食事は諦める。血肉となり得なかった動物達には後日焼香をあげ祈りを捧げよう。では、寝る」



 あ、待て。そういえば忘れていた事があった。



「富士、貴様、歯ブラシの在処を知らんか。どうやら部屋には備え付けてないようなのだ」


「だったらフロントにございますよ」


「……なるほど」



 得心。全て納得がいった。歯ブラシを各部屋に設置していないのは照美の労力軽減のため。いちいちアメニティを設置する手間を省きワンオペ対応の負担を減らす目的があるに違いない。中々要領がいいではないか。さすが、腐っても経営しているだけある。




「なんなら私が取ってきやすよ」


「いや、貴様は私の召使いではないのだ。自分で行ってくる」


「さいですか。それではお気をつけて」


「あぁ」



 宿内を歩くのに気をつけろも何もないだろうに。歳を食うと心配性になっていけない。言ったところで不毛だから受け入れるが、あまり子供扱いしないでもらいたいものだな。ほら、ご覧の通りもうフロントだ。何事もなく到着したぞ。私だって一般的な大人なんだから早々ヘマなど踏むものか。後はこの呼び鈴を鳴らせばいいだけ。照美よ、奥に引っ込んでいるところ申し訳ないが、出てきてもらうぞ。さぁ来い、歯ブラシを寄越せ。呼び鈴を押下、押下、押下! 響く鐘音チンチンチン!




「うるさい。なぁにいきなりチンチンチンチンチンチンならして。お子様だってもうちょっとお行儀よくするんだから」


「あぁすまん。珍しいものだからつい連打してしまった。すまない」


「お兄さん、本当に変」


「旅館を使った経験が乏しいのだ。許せ。それより照美よ、歯ブラシが欲しいのだが、くれまいか」


「歯ブラシセットならほら、受付の横にあるから取って行ってちょうだい」



 あ、本当だ。個包装の歯ブラシが大量にある……埃を被っているなこれ。



「照美」


「なぁに」


「衛生用品に埃を被せるというのはどうなんた」


「しょうがないじゃないお客様が来ないんだが。それに諸悪の根源は部屋に歯ブラシ置くなって言い出した政治家のせいです。私は悪くありません」


「政治家? 政治家が決めたのか? 歯ブラシを部屋に置くなと。業務効率のためではなく」


「あら、ご存知ないの」


「存じ上げない」


「ふぅん。案外、常識ないんだ」


「め、面目ない……」

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