2.10
客。家。予約。二人の会話から流れ込む単語の数々に圧倒され放心。一旦ビールでも飲んで落ち着きたいところだがグラスは照美の前であり手を伸ばすのに躊躇する。口を付けた物を共有するというのは不衛生ではないか。彼女が口唇ヘルペスであれば感染の危険があるし、そうでなくとも歯周病菌がフリーパスで私の口内に移住してくるかもしれない。リスキーでリターンは皆無。このまま昼の宴を続けるのであれば婆さんに新しいグラスを用意してもらうか、郷に従ってそこの冷蔵庫からひょいと拝借するのがマスト。とはいうものの、本人の前でグラスを交換したとあっては名誉を傷つけてしまう場合もある。どれだけ危険性を訴えて合理的な説明をしたとしても、人間の感情は理屈通りにいかないのだ。酒は一旦置いて置いて、独力での整理を試みよう。まずは頭を無にして下準備。三、二、一、はい、完了。パニックは治った。状況把握リソースの確保に成功したため次のフェーズ。会話内容から察するに、富士が手配した宿は照美の生家であると推察できる。おや、存外単純、明快に導き出せた疑問における解答。だからといって何を得るわけでもないのだが。
「ところで富士さん。こちらはどなたかしら」
「あぁ、ご紹介が遅れてすまないね。こちら、道中で出会った方なんだが、大層な人でね。お願いしてお供してるのさ。ダンナ、こちら、照美ちゃんといいまして、これから世話になる宿の娘さんです」
「どうもはじめまして。ご利用ありがとうございます」
「あぁ。はじめまして」
にこやかな笑顔が包容的である。蝶よ花よという感じでもないが、愛されてきたのだろう。でなければこれ程屈託ない表情ができるはずがない。弊社の……いや、元勤め先の人間などは口角を上げてもどこか卑屈で陰気臭い連中ばかりだった。長年の激務で精神が汚染してしまったのだ。哀れである。
「お兄さん、どうしかなされたの。じっと見つめて」
「笑顔が素敵だと思ってな」
「やだ、案外お上手なのね。いいわ。お泊まりの際は特別にサービスしたげる」
「いや、お気遣いなく。払った金額分の内容でいい」
「……」
「ダンナ、ダンナはもうちょっと洒落っ気を持ってもいいかなと思いますよ私は」
なんだ、咎められているのか私は。
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