2.2
「ダンナ。着きました」
「あぁ、降りようか」
何某駅に到着。降車しプラットホーム。得られる解放感。足裏からはコンクリートの感触。自重による刺激が膝、腹、背、肩にかけて走り心地良く、腰を真っ直ぐに伸ばせる事の幸せを噛み締め辺りを見渡す。知らない人、知らない建造物。知らない地元のチェーン店。知らないものだらけの土地は風の臭いも少し違う。強く感じる地元と相違する成分は、胸をざわつかせ活力が生まれ好奇心に満ちていく。陸地同士でこれなのだ。海の近くはどれだけ違ってくるのだろう。楽しみではないか。
「ダンナ、こっちです。南口から徒歩三十分。駅からやや近の温泉宿を手配しています」
「手配したのか。どうやって。電話もしていなかったようだが」
「本気ですか。今の時代、スマートフォンのインターネットでなんでもできちまうんですよ。ご存知ありませんか」
「スマートフォンか、電話とメッセージのやり取りくらいしか利用した事がないな」
「分かりました。ダンナはもう少し、世俗に汚れた方がいい」
「それも面白そうだが、それよりもまず食事だ。朝から何も食べていない」
恥ずかしながら本日遅刻必須の時刻に起床したため朝を抜いた。睡眠欲の誘惑には抗えまい。
「そいつはいけない。人間、飯を食わねばなんにもなりません。腹が減ってはなんとやら。生業にも支障をきたします。あぁ、そういえばダンナは何をなされていらっしゃるお方ですかな。私の事ばかり喋ってしまってお伺いするのを失念しておりました」
「何を。何をも何も、私は生きているだけだが」
「そうではなく、お仕事でございます。お勤めは何を」
「なんだ仕事か。私は元勤め人だ。地元で無為な業務を引き受け金ばかりを得ていた無価値な人間だよ。今となっては全て過去。本日より無頼だがね」
「ははぁ。では、今回の旅は突発的な無計画でございますか。さしずめ自分探しといったところでございますかな」
「自分探しか。おかしな事をいう。私はここにいるではないか」
「……それもそうでございますね」
「先刻も述べたが、私は海を見たいだけだ。それ以上に何を望もう。いや、すまん。少し見栄を張った。海を見たいというのは本心だが、仕事をしたくないという惰弱で矮小な心もあった。いやいや、仕事をしたくなくなったから海を見たくなったのかも知れん。今思えば、逃避の動機付けとして突拍子もない欲求が生まれたという可能性も否定できん。ともすれば私はとんだ落伍者、駄目人間ではないか。しかしなんだこれは。ちっとも恥を感じない。それどころか出社して課長だ部長だと騒いでいた頃より堂々と胸を張れる。一個の人間の生を、今感じている。そうとも何を恥じようか。えぇい何が仕事だ社会だ。私は私ではないか。畜生、まだネクタイなんか付けていたのか私は。外すぞ。私はこのネクタイを外すぞ。二桁万円を支払って購入したネクタイだがこんなもの可燃ゴミだ。あ、そこな人。待て、待ちなさい。いいところにいた。貴様、煙草は吸うか。吸う。結構。火を貸してくれ。うむ。ありがとう。よし、いいか富士、そして火を貸してくれた親切な人。こんなネクタイなんてこうだ。ほら、明るくなったろう。これで私は自由だ。綺麗さっぱりしがらみから脱した。これで人間、これこそ人間。どうだろう。こうなればもう誰も私を逃避のために海に行きたがる男などとは思うまい。私は海に行くのだ。行きたいから行くのだ。仕事など関係あるか。なぁ富士、そうだろう」
「仰る通りで」
「そうだろそうだろう。親切な人、火をどうも。もう行って良いぞ。では改めて、食事をしよう。酒も飲むぞ。人生の門出だ。飲まずにいられるか。なぁ富士、そうだろう」
「仰る通りで」
「うむ。では店の都合は頼むぞ富士」
「既にホットペッパーグルメで予約済みでございます」
「天晴れ!」
ホットペッパーグルメがなにやら知らぬがとにかく良し。めでたい日にめでたい酒を飲めるならそれでいいじゃないか。
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