嵐。そして俺の選択。
俺とアルパヌは、灰色の海を見つめていた。
林檎半島の港町、貿易船が錨を下ろす桟橋に俺たちは立っていた。
空は曇天で、黒ずんだ雲が低く垂れ込めている。
海面は鉛のような色に光り、大きくうねっている。
風が強かった。たっぷりと湿気を含んだ風が俺たちに吹きつけ、耳元でごうごうと叫ぶ。
アルパヌはドレスの裾を押さえていた。スカートがバタバタと音を立てていた。
「ご主人、これって……」
「ああ。間違いなく大嵐(ハリケーン)の前触れだ」
かちゃかちゃと金属のぶつかりあう音が俺たちの背後から近づいてきた。
「誰かと思えばルーデンスか! もはや海辺は危険だ。いつ波にさらわれてもおかしくないぞ? 今すぐ海岸から離れろ!」
振り返れば、ルクレツィアが立っていた。
いつも通り、二人の衛兵を後ろに引き連れている。
衛兵たちはそれぞれ、麻縄の束を肩に載せていた。
「これは騎士団長様。一体どうされたのです?」
「気休め程度かも知れんが、桟橋を補強しておこうと思ってな」
「えっ? でも、この桟橋は――」
「さよう、商工ギルドの所有だ。だが緊急時には騎士団が手を貸すことが慣例となっておる。領民を守ることは騎士の務めだからな! そういうお前こそ、一体ここで何をしている?」
俺はため息をこらえた。
「俺はただ、空模様を見に来ただけですよ」
「ご主人は〝大市〟の開催を危ぶまれているのです!」
ルクレツィアはゆるゆると首を振った。
「残念だがルーデンス、今年の〝秋の大市〟の開催は絶望的だ」
「大嵐のせいで?」
相手は深刻な表情でうなずく。
「透視術(クレアボヤンス)を通じて、沿岸の町の情報が次々に入ってきている。いずれも壊滅的な被害が出ているそうだ。領民を守り切れなかった騎士たちは、さぞかし口惜しいであろうな……」
鎮痛な表情で、ルクレツィアはうつむいた。
「ですが、嵐は数日で通り過ぎるのでは――?」
「お前は事態を甘く見過ぎている。今を遡ること十数年前に、やはり強烈な大嵐がこの町を襲ったことがある。当時の私はまだ頑是(がんぜ)ない子供だったが……。嵐が過ぎ去った後の酸鼻を極める光景を、私は今でもたまに夢に見る」
二人の衛兵は俺たちを通り越し、桟橋の先端近くでしゃがみ込んだ。
手際よく麻縄を結びつけ、補強作業を進めていく。
「〝林檎家〟に残る記録によれば、その時は港の機能を再開するだけで半年かかった。それでも死んだ人間の命は戻ってこなかった。墓穴を掘るのが間に合わず、広場は海岸に漂着する死体を並べる場所になった。あの時の死臭が町から消えるまでに、それから何年もかかった」
「そんな……」
「残念だが、ルーデンス。今年の〝秋の大市〟は中止になる。十中八九、大嵐は一週間ほどでこの林檎半島を直撃する。覚悟を決めておくのだな」
――一体、何の覚悟を?
俺は思わず聞き返しそうになった。
俺は今、五億ゴールドに相当する外貨を諸外国の貴族たちから借りている。
それらのカネはすでに俺の手元にない。
この町で〝大市〟の準備をしている商人たちの手に渡っている。
もしも〝大市〟が中止になれば、俺は貸したカネを回収できず、諸外国の貴人たちにも返済できない。
それは、俺の破滅を意味していた。
その場合、近隣各国の貴人からカネを借りたことが仇となる。
もしも何らかの手段で林檎半島から脱出することができても、俺にはもはや行き場がない。
どの国に行っても、カネを騙し取ったお尋ね者として追われる身になってしまう。
「ご主人〜……」
アルパヌが不安げな顔で、俺の左手を握った。
彼女の指先が、俺の小指に触れる。
そこにはマリアから与えられた銀の指輪がはまっている。
そもそも林檎半島から脱出すること自体が、今の俺には極端に難易度の高い課題だ。
あるいは、今こそ俺の能力を使うべきときなのかもしれない。
〝豪運〟の力を使えば「起こりうる偶然」を、実際に起こすことができる。
この能力があったからこそ(少なくともアルパヌと出会うまでの)俺は、賭博で負け知らずだった。
どんな賭けにも勝つことができた。
しかし代償は大きい。コイン投げの狙った面を出すだけで半日寝込み、サイコロの目を操作するだけで数日間は食事が喉を通らなくなる。
トランプの引きたいカードを引けば、一週間はひどい二日酔いのような状態が続く。
もしも天候を操作しようとすれば――。
可能か不可能かでいえば、おそらく可能だろう。
過去に試したことはないが、たぶん俺の能力なら、天気を変えることができる。
雨が急に止んだり、大嵐の進路が変わることは「起こりうる偶然」だからだ。
しかし、その代償がどれほど重たいものになるか、想像もつかない。
そもそも、嵐を遠ざけるだけではダメだ。
〝大市〟の期間中、俺は広場にいなければならない。
俺には〝策〟がある。
利子を取らずとも大きく儲けるという〝策〟だ。
この策を成功させるためには、寝込んでいるわけにはいかない。
広場の片隅に陣取って、顧客の相手をしなければならない。
俺は〝秋の大市〟に、かつてないほど大きく賭けているのだ。
しかし〝豪運〟の能力を使えば、運が悪ければ死亡、運が良くても一定期間はベッドの中で絶対安静だ。
能力を使った時点で、賭けに負けることが確定してしまう。
思い浮かんだのは、魔術師の陰気な顔だった。
彼女は地元の魔術ギルドに〝大学〟の称号を与えてもらうために旅をしていた。
彼女のギルドは天候操作の魔法を研究しているという。
その魔法は、すでに完成しているのだろうか?
仮に天候を操作できるとして、いくら支払えば彼女を買収できるだろう?
仮に魔術師を買収できるとしても、今の俺の手元には現金がない。
どうにかして現金を作らなければならない。
それも、魔術師の心が動くほどのとんでもない金額の現金が必要だ。
俺の脳裏を、マリアの声がよぎる。
(今はあなたを信じましょう、ルーデンス)
あの時、マリアはまるで少女のように笑った。
(その子を手に入れるためなら、何百万ゴールドでも惜しくないわ)
俺はアルパヌの顔を真っ直ぐに見つめる。
彼女には申し訳ないが、これはきっと彼女のためにもなるはずだ。
彼女と出会い、この町で過ごした半年間は、決して無駄ではなかった。
俺に残された選択肢は一つだった。
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