〝薔薇の名前〟
パタンと音がして、床の跳ね上げ戸が開いた。
アルパヌの細い腕が床下からぬっと生えてきて、手にした白ワインのデキャンタを床に置いた。
続いて、ワイングラスを二脚、やはり床に置いた。
最後に、肴(さかな)を盛り付けた大皿を器用に肩に載せながら、アルパヌが梯子を登ってきた。
「いやあ、ご主人! ようやく〝クラーケンの卵〟にありつけますよ〜」
見れば、皿の半分は卵料理で埋め尽くされていた。
もう半分には、クラッカーとチーズ。
先ほどルクレツィアから贈られた〝王家の赤薔薇〟である。
食は原始の娯楽であるという信条に則り、転売せずに美味しくいただくことにしたのだ。
とはいえ正直なところ、味を楽しむような気分ではなかったのだが。
「ボッテさんに訊いて、白ワインを見繕ってもらいました! よく冷えてますよ」
「……」
「さあ、ぬるくなる前に祝杯を上げましょう!」
アルパヌは楽しげだ。俺はつっけんどんに答える。
「祝杯? 何の?」
「それはもちろん、ルクレツィアさんからの疑いを晴らすことができたことのお祝いです!!」
「別に疑いが晴れたわけじゃない。ルクレツィアは〝勇者たちを騙した詐欺師〟を探し続けるだろうし、この剣を見れば――」
と、俺はベッドサイドに置いた剣を手繰り寄せる。
剣のつかには再び、菖蒲家の紋章が浮かび上がっている。
「――いつでも俺の身柄を拘束して、罪人として投獄するだろう」
アルパヌは満足げに微笑みつつ、グラスにワインを注いだ。
「それはまあ、そうでしょうけど……。でも、今日のところは危機を退けることができたんです! 明日のことはまた明日考えましょう!!」
彼女はグラスの片方を俺に差し出した。
受け取りつつ、俺は答える。
「――目的は何だ? カネか? 自由か? それとも〝精〟か?」
「はい?」
「この剣だ。ルクレツィアの前では紋章が消えていた。あれはお前の幻術だろう?」
「上手く誤魔化すことができて良かったです」
アルパヌは穏やかな表情で、グラスの中のワインを見つめた。
ろうそくの光が反射して、黄金色に輝いている。
「ボクの幻術は、自分の両腕が届く範囲内のものを、別のものとして誤認させる能力です。あの時、ボクはご主人に抱きついていたから、この能力を使えました。もしもルクレツィア様がその剣をきちんと手に取って検分なさっていたら、危ないところでした。彼女がご主人の上着をめくっただけで結論を出されたので、騙すことができました」
「そしてお前は、俺を強請るネタを手に入れたというわけだ」
「はて? 強請るって……誰が誰をです?」
「お前が、俺を。他に誰がいるってんだ」
「なっ――」
アルパヌは口をあんぐりと開けて動きを止めた。
心臓がたっぷり十回は打つくらい、彼女は硬直していた。
「なんてこと言うんですか! どーしてボクがご主人を強請らなきゃならないんです!?」
「お前はいつでもルクレツィアに証言できる。『自分は奴隷だ、主人の男に脅されて、幻術を使わざるをえなかった』――」
「するわけありませんよ、そんなこと!」
「そうだろう、すぐにはしないだろう。俺を強請って、搾り取れるだけ搾り取るまでは」
「どうしてそんな考え方になるんです?」
「俺がお前ならそうするからだ」
「ボクはご主人とは違います!!」
アルパヌは口を尖らせる。
俺は肩をすくめた。
「そうとでも考えないと、理屈に合わない」
「理屈ぅ?」
「そうだ、理屈だ。俺を強請るネタが欲しかったと考えなければ、お前があそこで幻術を使った理由が説明できない」
「ボクはただ、ご主人をお守りしたくて――」
「おためごかしはやめろ!!」
俺は語気を強めた。
「どう考えても、お前には俺と一緒にいる理由がない。俺が投獄されれば、担保であるお前はマリアの所有になる。今よりもずっといい暮らしができる。体を清めるのに冷たい井戸水を使うこともなければ、屋根裏のカビ臭いクッションで寝ることもない。暖かなお湯と羽毛のベッドが待っている」
「……本気でおっしゃっているんですか?」
「もちろん本気だ」
「ご主人は可哀想な人です!」
今度はアルパヌが怒る番だった。
「自分が嘘を重ねすぎたから、他人を信じることもできなくなってしまったのですね!?」
「俺がいつ嘘をついた?」
「アルレッキーノとは何ですか!!」
「それは――」
「今ご主人が使われているオティウム・ルーデンスは本名なのですか? アルレッキーノもルーデンスも、どちらも偽名なのではありませんか?」
図星だった。
「ご主人には秘密が多すぎます! 本名すら教えてくださらないなんて!!」
「じゃあアルパヌ、お前はどうしてアルパヌなんだ?」
「それは……。物心ついた頃には周りからそう呼ばれいただけで、どうしてと言われましても」
「そうだろう? 名前なんてそんなもんだ! 名前がなんだというんだ。〝薔薇〟という名のあのチーズは、たとえ名前が違っても、同じ臭さで香るはず」
「はぐらかさないでください!!」
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