長い一日がようやく終わる
「俺はこの店のことが――〝踊る翼獅子亭〟のことが好きだし、亭主さんの醸したエールの味が好きだ。二週間後から始まる〝大市〟では、ぜひ亭主さんのエールが売れて欲しいと思っている」
「そんなお世辞を――」
「いいや、本心だ。信じて欲しい」
俺はジョッキの底を見つめた。中身は空だ。
「それでも、俺も商売人だ。亭主さんが申し出に応じてくれないのなら、この三十万ゴールドを他所(よそ)に持っていくしかない。たしかこの町には、酒場があと二軒あったはずだよな? 〝緋竜亭〟と〝兎足亭〟だったか? どちらも格はこの店よりも劣るけれど……」
ボッテはぼそぼそと答えた。
「あちらはメシも酒も不味いですぞ」
「その通りだ。だからこのカネは、できれば亭主さんに受け取って欲しい。とはいえ、無理強いはできない。最後はあんたが決めてくれ」
「私は――」
何か言いかけて、ボッテは目を閉じた。
「ううむ」と唸り、考え込む。
きっと頭の中で算盤(アバカス)を激しく弾いているのだろう。
俺はゆっくりと相手の反応を待つことにした。
俺にできることはやり尽くした。
あとは、この亭主の返事次第だ。
ふと横を見れば、アルパヌが叱られる直前の子供みたいな顔をしていた。
交渉のひりつく空気にビビッてしまったらしい。
ゲームだろうと商談だろうと、勝負事はこのピリピリした空気こそが醍醐味なのに。
「……では、二十八万ゴールドをお借りしましょう」
俺は微笑んだ。
「本当に足りる? 二十九万ゴールドくらい必要じゃない?」
「ご心配には及びませんよ。ルーデンス様のご推察通り、普通に大麦を買えば二十八万八〇〇〇ゴールドはかかってしまうでしょう。ですが――」
ボッテは言葉を区切った。
「ですが、麦問屋との交渉当たるのは私です。古くから付き合いのある私が値切れば、二十七万ゴールドでも多いかもしれません」
「余裕を見て、二十八万ゴールというわけか」
「左様でございます」
ボッテは自信たっぷりにうなずいた。
「六週間後、利子の二割を上乗せした三十三万六〇〇〇ゴールドを必ずやお返しいたします。ぜひとも二十八万ゴールドをご融通いただきたい」
「交渉成立だ」
テーブルの上には、金貨十枚ずつの山が三十個並んでいる。
うち二つを俺は手元に引き寄せ、残りを相手側に押し出した。
◆
俺とアルパヌは屋根裏部屋に戻ってきた。
長い一日だった。俺はベッドに倒れ込む。
「えーっと、ご主人はマリア様から三十万ゴールドを借りたんですよね?」
「そうだ。〝大市〟が終わったら三十一万ゴールドにして返す約束だ」
アルパヌはクッションに埋もれながら、指折り数えている。
「そして今、二十八万ゴールドを酒場の亭主さんに貸した……」
「簡単な覚書しか交わしていない。明日の朝イチで公証人を呼んで、正式な契約書を巻くことになっている。羊皮紙でできた、しっかりした契約書をな」
耐えきれず、俺はあくびを一つ。
すぐにでも眠ってしまいそうだ。
「〝大市〟が終わったら、亭主さんから三十三万六〇〇〇ゴールドが返ってくるはずですよね?」
「その通り。酒場の亭主エミリアーノ・ボッテから受け取る利子三万六〇〇〇ゴールドから、マリア様に支払う利子一万ゴールドを引いた、残りの二万六〇〇〇ゴールドが俺たちの儲けだ」
それだけあれば半年間は食うに困らない。
〝秋の大市〟まで余裕を持った生活ができる。
繰り返しになるが、この国では三万ゴールドあれば大人一人が一年間生きていけるのだ。
俺は〝遊び人〟だ。働かずに生きていくためならば、どんな苦労も惜しまない。
俺はマリア様から借りたカネを右から左に流しただけだが、一滴の汗も流さずに二万六〇〇〇ゴールドの儲けを生み出すことができた。
もちろん〝春の大市〟が無事に終われば、の話だが――。
「俺たち、ですか。えへへ」
アルパヌの声は嬉しそうだ。
押し寄せる眠気のせいで、俺はもはや枕から顔を上げることができなかった。
「そっかー。『俺』じゃなくて『俺たち』なのですね」
「何を笑ってんだよ、気持ち悪いな」
「ご主人、ボクはとても機嫌が良いです!」
「そいつは……大変結構……」
「だからご主人、添い寝してもいいですか?」
「絶対に……許、さん……」
俺の意識はそこで途絶えた。
◆
ここから先は、後から聞いた話を元に俺が再構成したものだ。
俺たちが〝踊る翼獅子亭〟の屋根裏で眠りに落ちている頃、勇者たち一行は王都に向かう馬車に揺られていた。
旅慣れていない人は知らないだろうが、馬車はそれほど速くない。
王都までの街道を徒歩(かち)で行けば二週間ほどかかるが、馬車でも日数はさほど短縮できない。
早馬を乗り継いでいく場合とは違うのだ。
馬車の魅力は速さではなく、積載量にある。
俺を追放した後、勇者たちは王都に向かう隊商に同行を許されたらしい。
星明かりの照らす荒野を四頭立ての馬車が六両、一列になって進んでいた。
夜通し進み続けて、次の村まで急いでいた。
この辺りは野盗が多く、宿営は危険だからだ。
街道の左右には緩やかな丘陵が広がり、松やオリーブの林がどこまでも続いている。
丘の稜線は、まるでノコギリのようなギザギザのシルエットになって、夜空を黒々と切り取っていた。
「――ねえ、パパ! どうにかしてよ!!」
幌馬車の荷台で膝を抱えながら、僧侶は語気を強めた。
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