第39話 胸から消え去らないモヤモヤ

「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」


 本を購入したお客様に感謝の言葉を伝えてから、私は小さく息をつきます。


 ちらりと時計を見ると、時刻は夕方の五時。


 今日は朝からバイトに入っていますが、もうそんなに経ったのかと驚きます。


 本屋さんという場所は不思議です。

 外では全く喋れない私が、ここでなら人と目を合わせてコミュニケーションを取る事ができる。

 私が唯一、安心できる場所。


 この街に引っ越してきて、本屋さんでバイトしようと決めたのは私の人生において一番の英断だったかもしれません。


「葵ちゃーん、レジ交代するね」

「はい、お願いします」


 持ち場の交代の時間になりました。

 パートの如月さんとレジを入れ替わって、本棚の整理に向かいます。


 その途中、私と同じ高校の制服を着た女子生徒が、向こうからやってくる姿が見えました。

 思わず、私は棚の影に隠れます。


 生徒が歩き去ってから、私はほっと胸を撫で下ろしました。

 体調不良を理由に学校を休んで、はや十日が経過しています。


 平日から学校という時間が抜けたわけですが、私としてはさほど変わらない日々を送っていました。

 朝起きて、バイトがある日はバイトへ行って、それ以外の時間は読書。


 バイトがない日は一日中、読書。

 とてもシンプルなものです。


 元々学校でもずっと本を読んでいたので、やっていることはそう変わりません。

 ただあえて変わった点を挙げるとすれば……清水くんと過ごす時間が無くなったくらいでしょうか。


 期間にして約一ヶ月半、私に時間を使ってくれたクラスメイト。

 地味で根暗でその辺に落ちてる小石くらいの存在だった私に、彼が何故あんなにぐいぐい来たのか未だに理由がわかりません。


 一緒に話したい、一緒に読書をしたい、一緒にカフェに行きたい。

 今まで人から求められる事が無かった私にとって、清水くんという存在は特異点そのものでした。


 夢か幻でしたと言われた方がまだ納得がいきます。 

 

 彼がどんなつもりで私と関わりを持とうとしてきたのか、気になるところではありますが……知る機会は無さそうです。もう、彼と会うことも無いでしょうし。


 そう考えると、胸にちくりとした痛みが走りました。


 何故?

 わかりません。


 この痛みも、本に載っていませんでした。


(私、何を……)


 本をマニュアルとは違う並べ方をしていた事に気づき、ハッとします。


 胃の辺りが妙にむかむかしていて、例えようのない不快感がありました。

 おかしいですね、お昼ご飯はおにぎり二つしか食べてないですのに。


 言葉で説明できない違和感を無理やり飲み込んで、私は本棚の整理に集中します。


「文月さん、ちょっと」


 しばらく本棚の整理をしていると、店長の佐々木さんが声をかけてきました。


 佐々木さんは四十歳くらいの男性の方です

 確か以前、中学生になる娘さんがいると仰っていました。


「はい、なんでしょうか?」

「作業の途中で悪いんだけど、ちょっと事務室来れる?」


 ああ、あの件でしょうか。


「はい、すぐに」


 一旦作業を中断し、佐々木さんと事務室へ向かいます


「この前話してくれた、正社員雇用の件についてなんだけど」


 こじんまりとした事務室にて、一枚の紙を手に佐々木さんが切り出します。

 紙にはずらりと私の個人情報が並んでいました。


 いわゆる履歴書ですね。


「文月さん、とても真面目だし働き者だから、うちとしては是非……と言ったところだけど、今はまだ高校に在籍している状態だよね?」

「はい、まだ在籍しています」

「だよね。端的に言うと、その状態で正社員として雇用しちゃうのは、契約書や労基周りで色々とややこしくてね……えっと、だから……」


 そこで何故か、佐々木さんは言葉を切ります。


「わかりました。では、退学手続きの方を先に進めます」


 私がすかさず言うと、佐々木さんはどこかバツの悪そうに眉をへの時にします。

 それから履歴書を見て、真面目な表情で尋ねてきました。


「でも、本当にいいのかい? その、学校は……」


 履歴書の経歴の欄に書いた『戸神高校中退(予定)』という一文について、佐々木さんは引っ掛かりを覚えているようでした。


「はい、記載の通りですので。来週には退学届を提出して、正式に手続きを完了させる予定です。保護者の了解も得ているので、手続きも滞りなく進むと思います」

「ううん……そうなんだね」


 私の言葉に、佐々木さんは腕を組んで困り顔をしています。


「ああいや、本来なら僕が口を出すのもおかしな話なんだけどね。僕には同じ年頃娘がいるから、どうしても気になってね。ほら、今のご時世、学歴はかなり重要でしょ?」

「お気遣い、ありがとうございます。ですが……」


 佐々木さんの目をまっすぐ見て、私は言います。


「もう決めた事ですので」


 私の強い口調からら揺るがない決意を感じ取ったのか、佐々木さんは諦めたように小さく息をつきました。


「わかった。じゃあ、退学届が受理されたら、正式に話を進めるよ」

「わかりました。ありがとうございます」


 深々と頭を下げてから、私は事務室を後にします。


(これでいいんです)


 胸中で独りごちて、私は持ち場へと戻りました。

 再び本棚の整理をしながら、今一度頭の中も整理します。


 学校に行かないと決めて、高校を退学するという決断に至るまでは早いものでした。

 行かないのに学費を払い続けるのも意味のない事ですし。


 そうと決まればとまず、祖父母へのその旨を連絡しました。

 小学、中学と、私がどんな生活を送ってきたか把握している祖父母は、嘆息しつつも『葵ちゃんの好きにしなさい』と了承をしてくれました。


 その時はちょっぴり……いえ、かなり胸が痛みましたが……。

 それでも、私の意思は変わりません。


 佐々木さんの仰った通り、高卒という学歴を捨てるのは惜しいですが、今ならオンラインでで高卒認定の資格を取ることもできます。

 成績も高い水準を維持していましたし、学力面で不足する事はないだろうという自信はありました。


 生活費面においても、今バイトとして働いてる書店で正社員として雇用してもらえる目処が立ったので、当分は心配しなくても良いでしょう。


 今ここで高校を退学しても、さほど困る事はありません。

 数々の本で得た知識で把握済みでした。


 やはり本は偉大です。

 そう、困る事はない。


 問題はありません。これでいいんです。

 理屈では正しいはずなんです。


 なのに。

 いつの間にか止まってしまっていた手が、自分の前髪にそっと触れます。


(これで、いい……これでいいはず、なのに……)


 前髪に触れていた手が、今度は胸の方に。

 生まれたくない胎児のように身体を丸めて、思いました。


(この十日間、胸から消え去らないこのモヤモヤは、一体なんなんでしょうか?)


「よっ」


 聞き覚えのある声に、身体がびくんと震えます。


 いや、まさか、どうして。


 頭の中にたくさんの言葉が溢れ出します。


 今の私にこんな言葉をかけてくる人物は、一人しか思い当たりません。


 恐る恐る、振り向きます。


 予想通り、以前と変わらない、飄々とした笑顔を浮かべた清水くんがそこにいました。

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