第31話 文月の過去

 ゆっくりと、文月は記憶を掘り起こすようにして語り始めた。


「物心つく前に、私は両親を事故で失って、古本屋を営む祖父母の家に引き取られました。そこで初めて……本を読みました」


 初手からかなりヘビーな内容の割に、文月の語り口はどこか他人事だった。


「祖父母の家は、お店と一体になっている間取りでした。古本屋なので、本は毎日読み放題ですね。もっとも、遠い田舎の山に囲まれた町だった事もあって、そもそも本を読むことくらいしかやることはありませんでしたが。……今思い返せば、子供心ながらに、両親を失った現実から逃避していたのだと思います」


 淡々と、何かの本の朗読のように語る文月。

 奏太は相槌も頷きもしなかった。


 正確には、出来なかった。

 言葉を失っていた。


 幼い頃に突然やってきた、両親との死別。

 そのショックと悲しみは、家族が健在の奏太に推し量ることはできない。


 奏太の思考と気持ちが追いつかないまま、文月は続ける。


「とはいえ当時はまだ五、六歳とかだったので、読める本も限られていました。日本昔ばなし的な絵本とか、よく読んでいましたね。本格的に読み始めたのは、小学生になってからでしょうか」


 ひとつひとつ思い起こしながら、文月は語る。


「簡単に察しがつくと思うんですが、小学生になってから私、いわゆるいじめを受けるようになったんですよ。元々静かで引っ込み思案な性格ではあったんですが、授業参観とかクラスメイトとの家族の話題を通じて、両親がいない自分と両親が健在で幸せそうな家庭というズレを埋める事が出来なくて、対人関係に消極的になってしまったんですよね。こうして孤立していった私は、いじめっ子達にとって絶好の玩具になりました」


 これまた重い内容だったが、やっぱり文月はどこか他人事だった。


「あだ名を付けられて揶揄われたり、髪を引っ張られたり、教科書や上履きを隠されたり、机に落書きされたり、王道のラインナップは一通り経験しました。当時の私は、自分がなんでこんな目に遭っているのか、わかりませんでした。段々と学校に行くのが苦痛になって、次第に休みがちになって……祖父母も心配をしてくれて、学校に掛け合ってくれたみたいなのですが、田舎の閉鎖的な学校なので、ひとりの生徒の個人的な事情にいちいち親身になってくれないんですよね」


 どこか諦めを含んだ声色で文月は続ける。


「それでずっと家にいるようになって、暇だったので色々な本を読み漁りました。売り物に漢字ドリルとかもあったので、自分で勉強して、わからない言葉は辞書とか引きながら、本当にたくさんの本を、毎日、毎日……」


 懐かしむように、文月が手元の本を撫でる。


「多くの本を読む中で、私は段々と自分が何故いじめられているのか、わかってきました。知っていますか? いじめという行動の本質は、異物の排除なんですよ。異物という、理解できない、わからない物に人は恐怖を覚え、自分の周りから排除しようと考えます。一種の防衛本能ですね。消臭剤が人気な理由が、臭さという異物の排除であるのと同じです。人間関係に置き換えると、個性が違う、肌の色や髪の色が違う、家庭環境が違うといった自分とは異なる要素を持っている他人を、人は異物として認識し排除しようと動きます。それが、いじめという行動の本質です」

「なる、ほど……」


 大きな社会問題にもなっている『いじめ』のメカニズムを、こんな少ない文字数で説明した文月の知識と語彙力に、奏太は感嘆の息をつく事しか出来ない。


「自分がいじめられた理由がわかると、不思議と心が晴れやかになりました。ああ、なんだ、そんな理由だったんだって、呆気なさを感じたといいますか。さっきの話と被りますが、人間が不安や恐怖を感じるのは、わからないからなんですよ。闇が怖いのも闇の中に何があるかわからないからです。でも、本のおかげで自分がいじめを受けていた理由がわかったので、不安や恐怖といった感情は無くなりました」


 その感覚は、奏太も最近経験した。

 以前、自分が何故他人の顔色を伺って合わせるばかりなのかという理由を文月に言語化された際、心に広がっていたモヤモヤが晴れていくような気持ちになった。


「でも同時に……色々と諦めもしました。私は、性格的な部分と家庭環境の部分で異物として認識されるので、どう足掻いても無駄なんだなって。世界中で研究結果や論文がいくつも出ているんですよ。人間が相互関係の中で生きている限り……つまり、人が人と関わっているうちは、どんな対策を講じようともいじめは無くならないんです。いじめをなくす方法はひとつだけ」


 顔を上げ、どこか決意めいた瞳で文月は言う。


「何者にも縛られず、誰とも関わらず、一人で生きていく事」


 文月がその選択を取ったのは、言うまでもない。


「しばらくして、私はまた学校に通い始めました。祖父母に心配をかけたくなかったですし、彼らの幼稚な行動のために私が引きこもるのは馬鹿らしいなって思って。そのまま卒業して、近くの中学に進学したのですが、田舎の小さい学校だったので小学の頃と顔ぶれが変わらず、引き続きいじめを受けました。上履きに画鋲を仕掛けられたり、水を被せられたりアップグレードしてしまいましたが……彼らは、私という異物が怖くて排除しようとしているんだなと思うと、不思議と堪える事が出来ました」


 落ち着いた文月に声色が、静かな川のように流れている。


「中学に入ってから、私の読書量はどんどん増えていきました。小学生の頃に本の知識に救われたのもあって、本を読めばわからない事がわかる、本を読めば辛い現実を見なくても済むと思うようになったんです。単に現実世界よりも、本の世界の方がよっぽど面白くて刺激的だったのもありますが。どんどんのめり込んでいって、お店にあった本を読み尽くす勢いでした」


 文月が瞳を懐かしむように細くする。


「とはいえ、流石に読書の邪魔をされるのは鬱陶しかったので、いじめという原始的な行動を取りにくい、知能と理性が発達した人たちがいる環境……つまり、偏差値の高い高校に行こうと決めました。これも本の知識ですが、頭が良い人間は想像力も高くて自分がされて嫌なことを人にしないし、いじめなんて幼稚な行為は恥ずかしいって人が多いらしいんですよね。それで、県内でも有数の進学校とされている、この高校を受けたのです」


 こうして時系列は、現在へと繋がっていく。


「高校からは祖父母の家を出て、一人暮らしを始めました。不安もありましたが、幸いなことに予想通りの結果になりました。一人黙々と読書をして、他人との関わりの一切を拒んでも、小学や中学の時のようにいじめを受ける事はありませんでした。……ごくごく一部、例外もいましたが」


 文月の眉が不快そうに歪む。

 昼休みの一件を思い出した奏太は気まずい心持ちになった。


「少し……いえ、かなり、余計な事まで話してしまいましたね」


 深く、深く、文月は息をついた。


「掻い摘んでになりましたが、これで話は終わりです」


 文月が奏太の方を見る。


 これで満足ですか、と言わんばかりの表情。


 一方の奏太は、途方に暮れていた。


 文月が本をこよなく愛する理由、一人でいる理由を知った。


 知った上で、文月にどんな言葉を返すべきなのか、わからなかった。


 いつもみたいに軽いノリで茶化すのは簡単だ。

 だけど、文月の口から語られたあまりにも重すぎる過去の数々に、そんな軽い言葉はぶつけられなかった。


(何を……言ったら……)


 焦りと共に、背中にじんわりと汗が浮かぶ。

 口を開いて閉じてを何度か繰り返した時、文月の太腿の上で微かに震えている両拳が目に入った。


 気づく。

 文月が自分の過去を明かすのは相当勇気のいった事だろうと。


 それだけ自分を信用してくれていると思うと、自然と言葉が出てきた。


「話してくれて、ありがとう。なんか、その、うまく言葉が纏まらないけど……とりあえず、大変だったんだなって、思った」 

「大変……だったかも、しれませんね。でも、私には本がありましたから」


 そう言って、文月は手元の本を大事そうに撫でた。


(……そうか)


 文月の言葉の数々から、ある一つの結論を導き出される。

 自分が盛大な勘違いをしていた事に、ようやく気づいた。


 いつも冷静で、わからない事なんて無いんじゃないかと思うくらい物知りで、どんなに状況に直面しても膨大な知識の泉から的確な対処法を引き出すことが出来る。


 そんな彼女を、強いと思っていた。


 逆だった。


 弱かったから、たくさんの知識で武装して、自分を守っていたんだ。

 ──書店では、本に囲まれているので平気なだけです。幾千数多の本たちが私に勇気をくれて、他人と目を合わせて言葉を交わせるという奇跡を起こしてくれるんです。

 

 いつだったか、文月が言った言葉を思い出す。

 文月にとって本はまさしく、自分を守る盾そのものであり心の拠り所でもあったんだ。


「ごめん、本当に。俺、文月のこと……全然わかってないのに、勝手に強い人だって決めつけて、こんなの大したことないとか言って……」

「気に病む必要はないですよ。強い風に見せていたのは、私自身なので」


 自嘲めいた笑みを浮かべる文月。


 その時──ぽつぽつと、空から降ってきた水滴が窓を叩いた。


 じきにざーざーと、本降りの音が響き始める。


「今日、本当に久しぶりに他人から悪意を身に受けて……ああ、やっぱり私は弱いんだなって、再認識しました」


 寂しそうに言いながら、文月はそっと目元を隠すように前髪に触れる。


「私が前髪を切らないのは、世界が怖いからです。怖くて怖くて仕方がないからです。どうしてみんな、平気な顔で他人と喋れるんですか? 人と目を合わせることができるんですか? 超能力者か何かなんですか? 意味がわかりません。理解が出来ないです。理解が出来なくて、怖いんです。こんな怖い思いをするなら、私は……」


 瞳に燃えるような意志を灯して、文月は言った。


「私はずっと、一人がいい」


 その言葉には、強い決意が篭っているように聞こえた。

 奏太の背筋に戦慄が走る。


 今、この言葉を否定しないと文月は……ふらっとどこかへ消えてしまうような気がした。


「だ、駄目だよそんな! 一人がいいなんて……」

「なぜ駄目なのですか?」

「なぜって……」


 人は誰かと一緒にいる事が普通だから。

 普通? 普通ってなんだ?

 

 アインシュタインも言っていた、普通は偏見のコレクションだって。


 これも文月に教わった事だ。

 つまり、文月の一人でいたいという気持ちを否定する材料にはならない。


「前に言いましたよね。現代では、一人でいたいなら一人でいればいいという選択が取れると。ドイツの作家、フランツ・カフカも言っています。一人でいれば何事も起こらないって」


 気づいてしまう。文月の意思を否定する手段がない事に。


 彼女は論理的に筋が通っていないと納得しない。

 それはこの数週間で嫌と言うほど理解している。


 言葉に詰まらせて狼狽する奏太に、文月はどこか清々しい声で言う。


「清水くんが気にする事はないですよ。元の状態に戻るだけなので」

「元の、状態……?」


 言葉の真意を測りかねている奏太をよそに、文月が立ち上がる。


「こんな異物と関わっても、良い事ないですから」 


 儚げな笑みを浮かべて言った後、『砂漠の月』を鞄に仕舞う。

 その表情はどこか、物寂しげだった。


 文月が鞄を手にする。呆然とする奏太に構わず、扉に手をかけて。


「さようなら」


 最後にそれだけ言って、文月は図書準備室を去った。

 後には奏太と、もの寂しく響く雨音だけが残された。

 

 その日を境に──文月は、学校に来なくなった。

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