第30話 人生は、地獄よりも地獄的である
放課後、窓の外は墨汁を薄めたように薄暗い。
そういえば夕方から雨予報だったっけと思い出しつつ、微かな希望を胸にいつの場所へ足を運ぶ。
図書準備室のドアを開けた途端、頬をふわりと撫でる温かい感触。
「……よかった、いた」
いつもの席で『砂漠の月』読む文月を目にして、奏太はほっと胸を撫で下ろした。
文月の斜め前の定位置ではなく、彼女の隣席に腰を下ろす。
そこで、文月の目元がほんのりと赤みを帯びている事に気づいた。
──文月さん、教室を出ていく時、ちょっと泣いてたっぽいし。
陽菜の言葉を思い出すと、胸にちくりと痛み走った。
かけるべき言葉を選んでから、尋ねる。
「……大丈夫?」
ぺらりと、ページを捲る音。
「えっと……」
「大丈夫に、見えますか?」
「……いや」
頭を振る奏太。
実際、今の文月は見ていて痛々しい悲壮感が漂っていた。
意外だった。
文月なら、『ああいうのは、強者が弱者に力を誇示する単なる威嚇行為です、猿と同じですので気にしません』みたいなつよつよ理論を盾に平静を保っていると思った。
実のところはどうだ。
瞳に光はなく、背中は力なく丸まっている。
いつも毅然としていて何事も動じない文月が、とても弱々しい。
触れたら砂となって消えてしまいそうな怖さがあった。
さっきから胸の辺りがちくちくと痛い。
気休めにしかならないと思いつつ、奏太は口を開く。
「あ、あの後、悠生と話したんだけどさ! やり過ぎたって、反省してたよ。タイミングを見て謝るって言って……」
「どうでもいいです」
絶対零度の声が奏太の言葉を遮る。
本当に、心の底からどうでもいいと思っている様相だった。
次の言葉をどうするべきかわからず、奏太が口を噤でいると。
「人生は、地獄よりも地獄的である」
ぱたんと、本を閉じる音。
「数々の名作を世に残した文豪、芥川龍之介の言葉です」
芥川龍之介──彼は、苦悩に苦悩に重ねて最後に自死を選んだ悲劇の作家であると、いつかの国語の授業で学んだ事を思い出す。
「……今の私も、同じことを考えています」
ひやりと、奏太の背中に冷たいものが走った。
紡がれた言葉は、底知れない絶望を孕んでいるように聞こえた。
「私、もう嫌です」
震える声が、空気を揺らす。
「人と関わるのも、周りの目に怯えるのも、影で陰口を叩かれるのも、もう嫌です。何が悲しくて、こんな罰ゲームみたいな日々を過ごさなきゃいけないんですか」
怒り、寂寥、絶望。
文月の声はあらゆる負の感情を含んでいた。
(やっぱり……相当、怖い思いをしたんだろうな……)
教室でひっそりと生きていたところを威圧され、皆の前で無理やり晒し上げられた。
そのショックは想像以上に大きく、ナイーヴになってしまっているのだろう。
その程度に考えていたから。
いつもの調子で奏太は、軽率な笑みを浮かべ無責任な事を口にしてしまった。
「まあまあ、そんな思い詰めなくても大丈夫だよ! 昼休みは怖い思いをしただろうし、変な注目も集めちゃったけど、悠生も皆も気にしてないだろうし、大した事にはならないよ。ほら、文月は強いから、きっとだいじょう……」
「強くなんてありません!」
窓を震わせるような声が奏太の言葉を断ち切った。
「強くなんて……ないんですよ、本当に……」
視線を机に向けたまま、今にも泣きそうな声で繰り返す。
「……ごめん」
あまりにも軽率で、文月の事を考えていない発言だったと気づいて謝罪する。
「…………」
文月は何も答えない。
しん、と冬の夜空みたいな静寂が舞い降りたかと思うと、ごろごろと腹の底が揺れるような音が窓を揺らした。
(……何か、言わないと)
そんな薄っぺらい動機から頭に浮かんだ言葉を、口にする。
「文月はさ、なんでそんなに……本、読んでるの?」
質問を投げかけられた文月が奏太を見る。
胡乱げな瞳と目があう。
「どういう意図の質問ですか?」
どういう意図だろう。
返答には、少し考える時間を要した。
「…………知りたいから、かな」
「知りたい、ですか?」
「うん、文月のこと、もっと知りたくて。どうして文月は、こんなにたくさんの本を読んでいるのか……どういう経緯があって、一人で読書をするようになったのか、知りたい」
本心だった。
文月葵という人間を構成する『読書』には、どんなルーツがあるのか、知りたかった。
今まで見えていた表層上の文月ではなく、本質的な彼女は一体どういう人間なのか知りたかった。
しばらく文月は、考え込むように黙り込んだ。
それから奏太を、何かを見極めるようにじっと見つめる。
「ごめん、言いたくなければ、別に……」
「……初めて本を読んだのは、たぶん、五歳くらいの頃です」
視線を机に戻して、文月が口を開く。
それからゆっくりと、記憶を掘り起こすようにして語り始めた。
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