第28話 事件

 それは、唐突な出来事だった。


「うおっ」

「きゃっ……」


 昼休み。

 悠生の驚くような声と、文月の短い悲鳴が教室の入り口で響いた。


 ちょうど悠生は、奏太を含むいつメン達と食堂でランチを終えた後、お手洗いのため皆と別れひとりで教室に帰って来たところだった。


 一方の文月も同じくお手洗いか、図書委員の用事なのか教室を出るタイミングだった。

 ようするに、二人は教室に入り口で真正面からぶつかった。


 悠生はガタイも良く軸もしっかりしているから、小柄な文月がぶつかってきた程度では特に動じた様子もない。

 しかし体格差のある文月は決して軽く無い衝撃を受けたようで、後ろに倒れ尻餅をついた。


 狭い教室内で衝突事故が起こるのはよくある事で、普通はお互いに「ごめんなさい」で終わるところだ。


 しかし運が悪かったのは、文月が衝突した相手が悠生だったという事。

 そしてもうひとつ、文月が持っていた一冊の本が、悠生の真前に落ちてしまった事だ。


「なんだこれ?」


 古ぼけて擦り切れた一冊の本を、まるで汚い雑巾を摘むように悠生が拾い上げる。


 先に教室に帰って陽菜や澪と他愛無い会話をしていた奏太は、そこでようやく何が起こったのかを把握した。


「きったねえ本だなあ。なになに、『砂漠の月』?」


 ハッと、文月は目を見開いた。


「なんだこのイキッたタイトル。あれか? 意識高い系ってやつか?」


 小馬鹿にするように悠生が鼻を鳴らす。

 次の瞬間。


「返して!!」


 怒髪天を衝いたような声が教室に響き渡る。


 地味で根暗で存在感のない読書女子。

 教室では誰とも関らず無言を貫いていた少女の腹の底から吐き出された絶叫に、教室内は水を打ったような静寂に包まれた。


 しかしそれは一瞬のことで。


「さっきの、文月さん、よな?」

「あの子が声、初めて聞いたかも……」

「つかなんで怒ってんの?」


 ざわつきが伝播していく。

 教室中にいた誰も、文月がここまで怒っている理由がわかっていないようだった。


 しかし奏太はわかった。

 文月が激昂した理由が、痛いほどわかってしまった。


 ──あと何日かは、この本についてずっと考えていると思います。


 そう言って愛おしげに、古ぼけたカバーを撫でていた文月が頭に浮かぶ。

 彼女が名作と称し、何度も何度も読み返すほど愛着のある至高の一冊、『砂漠の月』


 それくらい大事にしていたを取り上げられた上に『汚ねえ本』呼ばわりされた。

 文月の烈火の如く怒りの根拠はこれで十分説明がつくだろう。


 一方の悠生は、まさかクラスで一番目立たない女子生徒に声を荒げられるとは思っていなかったのか、しばし呆けたように動作を停止する。


 その隙に文月は立ち上がって、悠生の手から本を奪い返した。

 それからまるで我が子を守る母親のように、本を胸に抱き悠生を睨みつける。


「え、なになにどうしたの?」

「………………」


 状況を読み込めてなくてキョロキョロしている陽菜と、事態を無言で静観する澪。


(文月……)


 そんな中、奏太は文月の元へ行こうとした。

 文月の今の心情を考えると居ても立ってもいられなかった。


「えっ、えっ、そーちゃんまで、どしたん?」


 立ち上がったところで陽菜に声をかけられハッと思考に冷静が戻ってくる。

 クラスの共通認識として、奏太と文月に個人的な接点は皆無だ。ここで文月のところへ行ったら、クラスメイトから「なぜ?」の視線を一身に受けるだろう。


(それに、行ってどうする……?)


 怖がってるじゃないか、やめてあげなよと文月を庇うのか?

 悠生に対してそんな態度を取ったらそれこそ、今の関係に亀裂が入るのは避けられない。


 下手したら自分のクラスでの立ち位置も変わってしまう可能性がある。


(でも文月が……どうすれば……)

「そーちゃん?」

「あ、いや……なんでもない……」


 文月を助けたい、でも自分のクラスでの立ち位置が揺らぐのが怖い。

 そんな二つの気持ち板挟みになって、結局動けず曖昧な言葉と共に椅子に座り直す。


「ンだよ本くらいで、カッカすんなよ」


 悠生が低い声で、文月に言葉を投げつける。


 ここで悠生が文月に言われっぱなしだと、自分の面子に関わる。

 それがわかっているからこそ、悠生はあえて文月に凄みにかかった。


「っ……」


 悠生の放つ圧に、肩をびくりと震わせる文月。

 目を伏せ、ぎゅっと唇を結び、怯えたように後ずさる。


「おいおい、いきなり怒鳴ってきてダンマリか? 情緒不安定かよ!」


 立場の差をわからせた事を確信した悠生が文月に迫る。

 その声色と表情にはわかりやすく、他者を見下す嘲笑の色が浮かんでいた。


 はんっと鼻で笑った後、悠生は勝ち誇ったように言い放った。


「そんなんだから友達いねーんだろ!」

「────っ」


 悠生の言葉に、文月は息が詰まらせたように胸を押さえた。

 強いショックを受けたのだと奏太にはわかった。


 ぷるぷると震える身体が妙にもの寂しく見える。

 そんな中、くすくすと、教室の誰かがせせら笑った。

 

 それからヒソヒソと、明らかに嘲笑が混じった声が教室内で沸き起こる。

 皆から奇異の視線を向けられ陰口を囁かれる文月は見てられない痛々しさがあった。


「おおっと……」


 本を抱えたまま、文月は勢いよく教室を飛び出した。

 その後を追う者は誰もいない。


 少しだけ奏太の体が動いたが、それだけであった。

 結局、呆然と事態を眺める事しか出来なかった。


 残された悠生は「なんだアイツ」と舌打ちする。


「いやー、マジで意味わからんかったわ」


 肩を竦めて何事も無かったかのように歩き出す悠生は、あくまでも自分は悪くないという風な空気を作っている。


 クラスのトップカーストに属する悠生に苦言を呈する者は誰もいなかった。

 クラスメイト達は二言三言、先ほどの一幕について話題に触れるものの、すぐに元の話に戻る。


 一瞬のうちに、教室はいつものざわめきを取り戻した。

 まるで、クラスにおける文月の存在感を象徴しているかのようだった。


「おっす、お待たせ!」


 奏太たちのいる席に戻ってきて笑顔で手を上げる悠生。


「おっそいじゃーん、ゆーせい。てかなんか凄かったね?」


 スマホをぽちぽちしながら陽菜が言う。


「いやー、ほんそれな」


 どかっと椅子に座り、やれやれと息をつく悠生。


「普段全く喋んねーと思ったら急にキレだすわ、睨んでくるわ、やっぱよくわかんねー奴だったなー」

「声すごい大きかったよねえ。なんか、意外だった」

「ちがいねえ。ありゃ典型的なあたおか女だよ、あたおか」

(──違う)


 心の中で、奏太は強く否定した。

 ここ一ヶ月、文月と接した日々を思い返す。

 

 決して、文月は頭のおかしな女なんかじゃない。

 むしろ彼女は非常に常識的な価値観を持つ、本が大好きなだけの、ただの……。


(ただの、女の子だ……)

「奏太もそう思うよな?」


 同意を求めてくる悠生に、胸の中で沸騰するような感覚が芽生える。

 いつものようにヘラヘラ笑って首を縦に振るなんて、もはや考えられなかった。


「奏太?」

「……俺は、思わないかな」


 気がつくと、そう答えていた。

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