第27話 文月先生の個別授業

「そういえば文月って体育の授業、参加しないの?」


 身体を丸めてココアをちびちびする文月の格好が、いつかの体育の時間のそれと重なって奏太は質問する。


 文月は缶ココアを机に置き、目を左上に向けてから口を開く。


「フランスの画家、ルノワールは言いました。人生には不愉快なことが溢れている。ゆえにこれ以上不愉快なものをつくる必要はない、と」

「えっと……つまり体育は苦手と?」

「そういう事です。ありとあらゆる言い訳を駆使して、単位を落とさないギリギリの参加数に調整しています」

「潔いね」

「自分の不得意にわざわざ時間を割くのは非効率なので。そう言う清水くんは運動、得意なんですね」

「身体を動かすのは得意かな。中学の時は運動部だったし。今も週に三、四回くらいはランニングしてる」

「なるほど、ランニング」

「興味なさそう」

「ないです」

「即答!」

「でも、凄いなとは思いますよ。私には乏しい能力なので」

「お、さては俺のバスケの活躍を見てた!?」

「あと少しで勝利というタイミングで凡ミスして逆転負けという場面は見ていました」

「一番かっこ悪いシーン!」

「ちゃんと動けている場面も見ていましたよ。インド映画のダンスって、こんな感じなんだなと思いました」

「褒めてるの、それ?」

「ええ、もちろん。私にはあんな動き、出来ませんので」

 

 自嘲気味に文月は言う。

 その表情は羨ましがっているようにも、諦めているようにも見えた。


「ま、まあ、人間には得意不得意があるからね。別に運動が出来なくてもいいっしょ。文月、勉強できるし」

「私の成績、言ったことありましたっけ?」

「成績優秀者一覧のところによく乗ってるから」

「ああ、なるほど……」


 納得したように文月は小さく頷いた。

 県内でも有数の進学校である我が戸神高校では、体育館前の広いスペースで成績優秀者上位五十名を張り出し名誉を讃える慣習がある。


「よく見ていますね」

「ひなたそとか悠生とか、いつも連んでいる奴らは基本的に成績上位者で差。特に悠生はいつもトップ層にいるから、文月の名前もよく目に入ってきたよ」

「一応、テストで五位から落ちた事はありませんね」

「流石過ぎる……」


 ちなみに、ひなたそはああ見えて20位代をマークしており、澪に至っては文月や悠生とトップ争いを繰り広げている一角だ。


 当の奏太は30位前後をうろちょろしている成績。

 生徒全体からするとかなり上位に位置するが、いつメンたちと比べるとドベという哀しき現実である。


「予習と復習を怠らなければ解けない問題もそうないでしょう」

「くっ……俺も現国さえなければ一桁も夢じゃないのに!」

「どれだけ壊滅的なんですか」

「ステータスのグラフで描くと、現国のところだけボコッと凹んでるんだよね」

「現国こそ一番点が稼げる科目でしょうに」

「そりゃあこれだけ本読んでればねー。あっ、そうだ」


 今しがた頭に浮かんだ思いつきに従って、奏太は鞄から現国の問題集を取り出す。

 それから立ち上がって、すたたたっと文月のそばに移動した。


「なんでしょう?」

「今度の期末テスト、現国の問題教えて!」

「はい?」

「おっと、ゴキブリを見る目ですね」

「さっき、現国の授業がわかるようなったって言ってませんでしたっけ?」

「わかるようにはなってきたけど、100点を取れるとは言ってない!」

「知っていますか? 国語の問題って数学等とは違って、文章を読まないといけないので気軽に解けないのですよ」

「おっ、つまり得意領域?」

「なぜこの流れで期待の眼差しを浮かべるんですか」


 はあ、と大きなため息をついて、ツンと文月は言う。


「自分で勉強してください。なんで私が」

「うぐぐ、厳しい」


 文月はどこ吹く風といった様子で、伏せていた文庫本を手に取った。

 取り付く島のないとはまさに事のことだろう。


(まっ、それはそうか……)


 日常の大半を読書に費やす文月が、わざわざ自分なんかのために時間を割いて現国の勉強を教えてくれるなんぞ天地がひっくり返ってもあり得ない事だろう。


 大人しく諦めて自分の席に戻ろうと回れ右すると。


「……まあ、でも」


 視線を本に落としたまま、文月は呟く。


「どうしてもわからない問題は、一緒に考えてあげないこともありません」

「!!」


 ぐるんっと奏太が振り向く。

 文月のありがたいお言葉に、奏太はぱあっと表情を明るくする。


「ありがとうございます文月先生!!」

「せ、先生付けは恥ずかしいのでやめてください」


 ふんわり頬をりんご色に染める文月の隣に奏太は腰を下ろす。


「早速、この問題なんだけど……」

「どうしてもわからない問題は、と言ったのですが……」


 と言いつつも文月は再び本を伏せて、奏太が見せてきた問題集を覗き込んだ。


(うお、ちか……)

 

 整った横顔が視界を覆う。

 シミひとつない白いうなじからは妙な色っぽさを感じられ、ふわりと漂ってきた甘い香りにどことなく心疾しさが到来した。


「ああ、この問題ですね。もう既に解いてるので、解説は可能です」

「流石です文月先生!」

「先生呼びを続けるようなら二度と教えてあげません」

「すみません文月さん!」

「まったく……それで、この問題ですが……」


 家庭教師が出来の悪い生徒に教えるかのように、文月が解説を始める。

 懇切丁寧な説明に、わからなかった箇所の理解がすんなりと進んでいった。


(なんだかんだで、面倒見が良いんだよねー……素直じゃないけど)

「何か今、失礼なことを考えていませんか?」

「イイエナニモ?」

「なぜ片言なんですか」


 他愛無い交わしつつも、しばらく奏太は文月先生に教えを請うた。

 そんな中で、思う。


(やっぱ……居心地いいなー)


 文月と過ごす時間が、シンプルに楽しい。

 いつメンと一緒の時のどこか緊張感のある時間とは違って、穏やかな空気が流れていく。


(ずっと、続けばいいな……)


 心の底からそう思った。


 思っていた、矢先だった。


 事件が起きたのは。

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