第19話 涙
その後、奏太は五回ほど休憩を挟んで本を読み切った。
「……面白かった」
小さく、奏太は呟く。
文月がお勧めしてくれた本は今回もたくさんの感情を楽しませてくれて、奏太は脳が痺れるような余韻に浸った。
ちなみに奏太が読んでいる間、文月が休憩を挟む素振りは一度も無かった。
脅威の集中力である。
その時、ぱたん、と本を閉じる音が鼓膜を叩く。
ちょうど文月も読み終わったのだろうか、と顔を上げると。
「…………えっ」
思わず奏太は素っ頓狂な声を溢してしまった。
文月の頬に、一筋の滴が伝っていたから。
「ど、どうしたの文月?」
「あ、ああ……失礼しました、つい」
指摘されて初めて、自分が泣いている事に気付いたとばかりの反応。
そのまま指で涙を拭おうとする文月に、奏太がすかさずハンカチを差し出した。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
しばらく文月は、ハンカチで目元を拭っていた。
少し経って、文月が落ち着かせるように深く息を吐いたタイミングで、尋ねる。
「そんなに感動したの?」
「名作ですね」
昔に出版されたのか、カバーも擦り切れボロついている本を大事そうに指でなぞる文月。
カバーに書かれたタイトルは『砂漠の月』
知らないタイトルだった。
すうっと息を吸ってから、文月は語り出す。
「話自体は、うだつの上がらない主人公が、自分を変えるために一発逆転の夢を追うという、ありふれたものだったんですけど」
まるで言葉の泉が溢れ出したかのように、流暢に説明を続ける文月。
「主人公は土木関係の日雇いで、夢は小説の文学賞を取ることでした。最初は正直、主人公が叶えられもしない大きな夢だけ見て、何も動かない姿を正直馬鹿にしていたんですよ。でも、彼は動かないんじゃなくて、動けなかったんです。主人公は、過去のトラウマが原因で人の目が怖くなって、自分の殻に引きこもるしかなかった。長い間ずっと、努力して苦しんでいたことが作者の巧みなミスリードで明かされて、一気に主人公の見え方が変わりました。もう、そんなに苦しいならやめたほうがいいってくらい、見てられない醜態を晒し続けてたんですけど、彼はもう、やめることが出来なかったんですよ。過去のトラウマが原因で人と関わる事ができなくなって、それでも自分の存在理由はどこかと探し続けて、やっと辿り着いた最後の希望に縋るしかなかった。昔に囚われて、選択肢が自分の中で消えた後でも先に進もうと苦しみ続けていました。そんな、どうしようもない弱さと同時に、意地とでも言うべき強さがあったんです。 結局、最後彼は夢を叶えられないまま病を患って死んでいくんですけど……どこか満足そうなんですよね。夢を叶えようともがき足掻いているうちに、彼の頑張りをちゃんと見てくれて応援してくれる人や、気の置けない親友もできて。最期に一人ぼっちじゃなく死んでいけた彼は、きっと幸せだったと思います。それから……」
そこまで話して、文月はっとした。
奏太がぽかんと呆気に取られているのを見て、女子垂涎の白頬がみるみるうちにいちご色に染まっていく。
「……すみません、喋りすぎました」
じわりと、潤んだ瞳がわかりやすく俯いた。
悪戯が親にばれた子供のような、恐れめいた感情を纏っているようにも見える。
そんな文月の様相に、奏太は思わず吹き出した。
「な、なに笑ってるんですか」
奏太のリアクションが想定外だったのか、文月は戸惑いと羞恥を織り交ぜた声を上げる。
「ごめんごめん。本当に、本が好きなんだなーって、ちょっとほっこりした気分になっただけだよ」
奏太が言うと、文月は目をまん丸くする。
「……引いたり、しませんでした?」
「引く要素あった?」
おずおずと尋ねてきた文月に、奏太はなんでもない風に返す。
「普段、本の感想とか話さない文月がこんなにも語るなんて、よっぽど面白かったんだなって……なんだか、聞いてるこっちも嬉しくなったよ」
「そんなのが嬉しいなんて、理解に苦しみますね」
「人の嬉しそうにしているのを見ると、こっちまで嬉しくならない?」
「共感力が高いんですね、清水くんは」
「あー、そうかもしんない。割と人のテンションに左右されるし」
「だと思います。でも、そうですね……」
少し考えてから、文月は言う。
「小説は、どれだけ主人公に共感出来るかで面白さが変わりますからね。この本の主人公に至っては、私自身かと思えるくらい共感出来ました」
「なるほどー。でも確かに、俺も面白いと感じる小説は、主人公の考え方とか行動に共感できるものが多いね」
「はい、なので、清水くんにお薦めしている本の主人公は、清水くんの性格に近い属性をチョイスするようにしています」
「そこまで考えてくれてたの!?」
「当然です。お薦めなんですから、楽しんでくれる根拠を以て選ぶのが筋かと」
「いや本当……流石過ぎるわ。いつもありがとうね」
「いえ……お薦めした本を面白いと言ってくれるのは、嫌いじゃないので」
言葉の通り、文月はほんのりと喜色を浮かべた。
それから文月はどこか擽ったそうに唇を震わせて。
「あと、長々と聞いてくれて、ありがとうございました。読み終えてから、頭の中が色々な感情でパニックだったので……話せて、スッキリしました」
「お礼を言われる事でもないよ。むしろ、いつも俺ばっかり聞いてもらってるから、話してくれて良かった」
奏太は読み終えた本の感想を誰かに伝えたくてうずうずしてしまう性分のため、いつも文月に聞いてもらっていた。
対する文月は基本的に、読了しても特に感想を言うわけでもなく淡々と次の本へ移るタイプのため、今回読んだ本はかなりのドンピシャだったのだろう。
「誰かに感想を共有するという経験は初めですが……」
良い思い出を思い起こすように文月は言う。
「とても新鮮で、悪くないと思いました」
「でしょでしょ! 俺でよければいくらでも感想を聞から、遠慮なく話してちょ」
「また、どさくさに紛れて私と喋る口実を作らないてください」
「いやいや口実とかじゃなくて! 友達なんだからさ、それくらいするでしょ」
「ともだち……?」
まるで初めて聞いた単語を口にするように、文月は呟く。
「……私と、清水くんは、友達なんですか?」
まさかの質問に、返答の言葉が遅れてしまう奏太。
「そういえば、さっきも店員さんと話している時、私のことを友達って……」
「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って」
両掌を文月に見せるストップのジェスチャーを掲げて奏太は言う。
「お互いに気兼ねなく話すし、放課後はよく一緒に本も読むし、今日二人でカフェに出掛けて読書をする……これを友達と言わないんだったら、世の中のほとんどの関係性は知り合いになっちゃうよ」
「そう、ですか……そう、なんですね、言われてみると確かに、これで知り合いという定義に当てはめるのは、少し無理がありますね」
「そうそう、俺と文月は紛れもない友達だよ、うん」
にっこり笑顔で頷きながら奏太は言う。
同時に、奏太は思い出した。
──友人関係というものは詰まるところ、個々人の打算的な思惑によって成立しているものです。
以前、文月が口にした言葉。
おそらく、彼女は友達という単語にポジティブなイメージを持っていない。
(軽はずみな事を言うべきじゃなかったか……?)
そんな心配をよそに文月は、胸の前できゅっ……と手を握って。
「私に、友達……」
カフェの雑音にかき消されるくらい小さな声で、文月は呟く。
微かに緩んだ口元、ほんのりと朱色を滲ませた頬。
わかりやすく嬉の感情を浮かべる姿はまるで、大切な宝物を両手で抱える幼子のよう。
思わず、奏太は目を逸らした。
胸の中でざわつく感情があまりにも大きくて、ずっと見ていたら息が詰まりそうだったから。
大きく深呼吸をし落ち着かせた後、奏太は何事も無かったように口を開く。
「は、話を戻すと、俺たち友達なんだからさ。感想の言い合いくらいは、気軽にしてもいいんじゃないかって思うのよ」
「そう、ですね。たまになら……いい、かもしれません」
「よっしゃ! じゃあ次の本の感想も聞かせてね!」
「たまになら、と言ったのですが。というか声が大きいです、ここはカフェなんですからボリュームを落としてください」
「あっ、ごめんっ」
両手を合わせてペコペコする奏太に、文月は「仕方のない人ですね」とばかりにため息をついた。
表情にどこか、柔らかい感情を残してまま。
「ところで、清水くんの方はどうだったんですか?」
「おっ、よくぞ聞いてくれました。めっちゃ面白かったよ!」
「知ってました」
「まず冒頭で、空からイカスミが降ってくる時点でもう心ががっちり掴まれたね、それと……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます