第25回 此処へ来た理由

 俺は怒りに震えていた。

 テーブルを叩いて立ち上がりそうになるのを必死で堪えた。


 そんな俺を尻目に、まさにそれを実行したのは矢野主将だった。


「ひどい話だ!」

 厳しい口調でそう言い放ち、主将は佐久間卓を睨みつけた。

「あなた方が幸せだったというその十五年間、残された妻子がどれほどの苦労を強いられたか、考えたことはなかったのですか? しかも、死の間際になって息子に会いたいなどと……あまりにも身勝手だ」


「確かにその通りだ。今さら何の弁解もできない。許されるとも思っていない。伊達さんが発症した時『これは自分だけが幸せだった代償だ。天罰が下ったんだ』と言った。もちろん、私にも罰は下って然るべきだ」


 佐久間は矢野主将の強い視線を真正面から受け止めていた。


「罰なんか、誰も望んでないですよ。義母はは義兄あにも。今は幸せですから。これからも父と俺が全力でふたりを幸せにしますから」


 怒りの出鼻を挫かれた俺は、おかげで却って平静を保つことができた。過ぎ去ったことに恨みごとを言っても始まらない。大事なのはこれからだ。


「いい歳をした私より、高校生の君たちの方が何倍も立派だ。話を聞いてもらえて良かった」

 幾分すっきりしたように見える顔を微かに緩ませながら、佐久間は言った。

「本当はもっと早く、洋人さん本人に話すべきだったのだろう。お父さんのことを。此処ここに来る勇気を振り絞るまでに時間がかかり過ぎてしまった。その所為で猶予はなくなった。会社から海外赴任を言い渡され、私は尻に火が点いた状態でこの町にたどり着いた。そして、洋人さんに接触する機会を窺っているうちに、彼の姿が見られなくなった。聞けば、療養のために欠勤していると。此処まで来ていながら、長らく逡巡していた自分が情けなかったよ。

 洋人さんのことが心配でならなかったが、まさか家に押し掛けるわけにもいかず、そうこうしている間に日本を離れる日が来た。もはや今日しか残されていなかった。

 明日、私はフィンランドへ発つ」


「「 フィンランド ‼⁇ 明日 ‼⁇ 」」


 矢野主将と俺は思わず驚きの声を上げた。


 出発は翌日。行く先は、遥か遠く。


「十万年の負の遺産と云われる核のゴミ捨て場、ユーラヨキ村での仕事だ。

 伊達さんを失った私には、もう家族と呼べる人はいない。おそらく、生きて帰国することはないだろう。客死の覚悟はできている。

 だから、伊達さんの心残りだったことを果たそうと思った。必ずしも彼がそうしてくれと頼んだわけではないけれど。私にはわかる。父親としての想いが洋人さんに伝わることを願っていた、と。

 最期まで、伊達さんは私のパートナーであると同時に、洋人さんの父親だった」



 * * *



 帰宅してすぐに食事と入浴を済ませ、自室に入ると洋人が起きていた。


「ヒロ、寝てなくていいのか?」

「いつまでも病人扱いするな。そんなに寝てばかりもいられっかよ。適度に動かないと身体がなまっちまう」

「このままずっと実家ここにいろよ。以前みたいな食生活に戻ったら再発するかもしれないだろ」

「だから今のうちにお袋に料理習っとくんだ」

「そんなにしてまで一人暮らししたいのか? どうせ俺や親の目を逃れて好き勝手なことしたいだけだろ!」


 回復すれば洋人はまた一人暮らしを始める気でいると知って、俺はつい声を荒らげた。


「亜斗里……何言ってるんだよ? おまえと結ばれたいからに決まってるだろう」

「そんなことより、俺はヒロの健康が大事だ!」


 不意に、パートナーだった洋人の父・伊達進也を病で亡くした佐久間卓の悲しみが共鳴するように胸裏に甦った。

 愛する人がこの世からいなくなる。それは悲しみというより、もはや恐怖。そんな恐怖には耐えられない。

 永久に結ばれなくてもいい。ただ、洋人が元気で生きてさえいれば。俺は洋人がいない世界にいたくない。


「そんなこと、って……亜斗里、どうした? なんか変だぞ、今日のおまえ。何かあったのか?」


「……部活が終わって帰ろうとした時、見物人の中にいた佐久間さんっていう人が俺に声をかけてきた」

 俺は佐久間卓の件を切り出した。義母には到底話せるものではないが、洋人には知らせる義務がある。何より、俺に話をした佐久間が望んでいることであり、ひいては洋人の実父の願いでもあった。

「話があるって言われた。知らない大人の男性ひとだったから、キャプテンに付き添ってもらって一緒に話を聞いた ――」


 

 俺が一部始終を話す間、洋人は時折り頷きながら、しかし表情を変えることなく、静かにじっと聞いていた。



「会いに行く」

 俺が話し終えると、洋人は言った。

「その佐久間って人に会いに行く」


「無理だよ。彼、明日にはフィンランドに出発するんだよ」

「明日、空港へ行ってみる。ヘルシンキの直行便があるはずだ」

「会ってどうするんだよ? まさか、ぶん殴る気が?」

「ぶん殴る……かもしれない。お袋と俺から容赦なく親父を奪って雲隠れした男だからな。全く恨みがないと言えば嘘になる」

「ダメだよ。教師が暴力沙汰なんて起こしたら大変なことになるぞ!」


 予想できた反応だった。俺は甘かった。療養中の身で洋人が行動を起こすはずはないと高を括っていたのだ。

 

「でも、会わなきゃ! 会わなきゃいけない気がする。その人、親父を看取ってくれたんだろ。……親父……亡くなってたんだな。なんだか、そんな気がしてた。

 そうか……俺が甲子園で投げるとこ、テレビで観てくれてたのか……」


 洋人の目が潤んでいた。

 実父の死は、義兄にとってやはり悲しみ以外の何ものでもなかった。


「そうだよ! 観てたんだよ。その時、親父さんとヒロの想いは繋がっていたんだ。元気だったら、きっと名乗り出てヒロに会いに来たはずだ」

 堪らず洋人を抱きしめた。少し痩せたその身体は微かに震え、やがてむせび泣く声が聞こえてきた。俺は念を押すように繰り返した。佐久間卓が最も伝えて欲しかったであろうことを。

「親父さんは、姓が変わっていてもヒロのことがわかったんだ。自分の息子だってわかったんだ。最期までヒロの父親だったんだ。それって、すごいことだよ。ヒロは親父さんから愛されていたんだよ。ずっとずっと愛されていたんだ。

 今も……今は、俺が一番ヒロのこと愛してるからな!」


 勢いで、自分の恥ずかしい告白まで付け加えた。

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